あたろーの日記
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2006年05月14日(日) 母の日。

 旧暦4月17日。
 夜日記を書くと暗いことを書いてしまうような気がする今日この頃の社会のできごと。今まだ17時半、今のウチに書いちゃうです。
 今日は、実家の母から小包が届いた。中には五目おこわ、蕗味噌、蕗の佃煮、筍の土佐煮など。この時季私が食べたくなるものをちゃんと分かってらっしゃる。よって、早めに銭湯に行き、熱い湯にじっくり浸かって、近所の酒屋で缶ビール(じゃなくて発泡酒)と、菊水の原酒を買って帰宅。やはり、新潟で採れたものは新潟の酒と合わせましょう。新潟県人で良かったと思うのは、日本酒を選ぶとき、呑むとき、です。すごーく誇りに思う。・・・ただそれだけ、すごく単純なんですけど(爆)
 東京はお金さえ出せばなんでも手に入る。だけど、どんなにお金積んでも東京で買えないものは、おふくろの手料理。スーパーやコンビニやデパ地下には絶対売ってない。
 あ、そういえば今日は母の日。こんなこと書いてますが、手料理送ってもらうだけじゃなくて、ちゃんと、カーネーションの鉢植えも手配済み、一昨日届いちゃったみたいだけど。
 親にとっちゃ子供はいつまで経っても子供なんですけど、私もいい加減親になっていい歳をとっくに過ぎているわけで。でも産む産まないの議論はアホらしい。産みたくても産めない人もいるだろうし、なんか、人間結婚して子供産んでこそまっとうだ、みたいなヒステリックな定義がはびこってるような気がするは私の錯覚?他人の人生に口出しするな。と言いたい。ましてや政府が個人の生き方にあれこれ口出しするのも余計なお世話。将来子供の数が減って年配者を養う世代がいなくなる?そもそも現代人はどんどん寿命延びて元気なご老人増えてる。年配者を養うためにもっと子供を産めよ増やせよ、なんて、なにか間違ってないかなあと思う。地球上に生きているのは人間だけじゃない。人間だけ増えちゃってもしようがない。緑や野生動物はどんどん減っているのに。・・・あれ、なんだか私もヒステリック。つまりは、その、子供を産むというのはあくまで個人的な、または生物学的な行為であるので、そこになんやかやと理屈くっつけて社会的にどうこうさせよう、っていう考え方についていけないです、はい。あと、子供を産むって、凄く神秘的で神聖なことだと思うんですよね。母親にとっても、子供にとっても、父親にとっても。それを、脂ギトギトの政治家のオッサン達にとやかく言われたくない、というより、口出しできる話ではないはず、という想いはあります。これは、まだ産んだ経験のない私でも、かつて子供だった私だから感じていることなのですが、母親の胎内に宿り、育ち、そこからこの世に生まれ出た経験が、自分にとっても(おそらく多くのかつての子供達であった人達にとっても)神聖なできごとであったと記憶しているから感じるのですが、出生率云々と、数字で判断するべきことではない、と思うのです、子供を産む、という行為は。
 もちろん、子供の環境や産みたい人のための環境を整えることと、産む産まないの議論は別問題と思います。後者はあくまで個人の意思なんだし。
 私自身は、できれば産みたいのと、子供が産まれた後のことを考えて躊躇してしまうのと、半々、です。産みたいなあ、という気持ちのほうが強いかも。いろいろ不安も多いけど。でも、もし、自分に産む機会があるなら自然に産みたいなとは思う。赤ちゃんが宿るならそれも縁だし。ジャガー横田さんが44歳で妊娠ですか。ということは、私もあと8年位は大丈夫かなあ。
 もし、産むとしたら、現代的な産院ではなくて、自然分娩できるところで産みたいです。イルカに助けてもらいながらの水中出産というのもあるらしいです。だけどもし産まなかったとしても、「お母さん」と呼ばれ頼られる存在にはなりたいなあ、と思う。血が繋がってなくても、そういう風に呼んでくれる娘や息子が将来いるといいなあ、と、おぼろに思ってます。
 
 


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