un capodoglio d'avorio
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2002年09月06日(金) シアターΧ芸術創造塾 「宴、死、そして日常」

芸能研でご一緒してる耕ちゃん出演の舞台。
仕事終わって大急ぎで両国のシアターΧに駆けつける、
惣一郎に迎えに来てもらいギリギリ間に合う。
親方、エディンが既に臨戦態勢。

舞踏の公演は初めてで、楽しみにしていた、怖さ半分で。
イメージでは、

「はいっ、でわ地面から生えてきましょう、そお、そのイメージです、
 じゃあ次わ地面にしみ込んでいきましょう・・・
 だめ、あなた、それじゃ、ただのたうち回ってるだけじゃないの」

なんだかそんなので、つまり客観を排除し、主観をごり押しする、
訳じゃないかも知れないけれど、感情や感覚という無形のものを、
抽象的に行動所作におとしていくなかで統一された「物差し」がないため、
きわめて見通しの悪い、言い換えれば他者を拒絶する壁をもった「芸術」。
暗黒舞踏の印象はそんな感じだった、告白すれば。

そしてその壁は、実際舞台が始まって数秒後、確実なものとして、
感じられることとなった、きっかけは、当の耕ちゃんの登場だ。
いかにも舞踏然とした出で立ちで上半身裸で巻きスカートのような衣装、
ズリズリ前傾姿勢で彼が客席入り口から出てきた瞬間、
それまでののほほんとした客席の雰囲気は一変した。
おお、と固唾をのんで、そのテンションに浸ってしまう。
確かにそこに壁は存在したと思う。
市民100人いたら80人まではちょっと眉をひそめるような、
そんなどかの先入観の舞踏イメージを裏付けるような、
そんな「内輪盛り上がり」的印象はぬぐえない感じ。

でも、耕ちゃんの身体が練り込まれて、躍動すればするほど、
どかはいつの間にか壁の内側に取り込まれていた気がする、あっけなく。
それは耕ちゃんがやはり顔なじみの友人だからか、それとも、
暗黒舞踏のポテンシャルなのか、
どかの観賞歴は足らなさすぎて判断はできない。
けれど、今夜の体験は壁の内側の「内輪の盛り上がり」に、
参加した気になれた、一応。

・・・全てを肯定する気にはなれない。
「舞踏」の弱点は、その表現形態があまりに抽象的なことではあくまでなく、
皆に共有される統一した「物差し」を持たないことに違いない。
それは「型」と置き換えてしまうとあまりにも安易すぎるけれど。
抽象的であっても「能」であればそこに確かな「物差し」が存在する。
小劇場系演劇に確かな「物差し」は無いけれど、
例えばオリザは誰が観ても直接的に分かる具体的な表現を追求する。
「神楽」は・・・ちょっと別だとどかは考えてるからここではふれない。
そういう意味で「舞踏」は弱みを抱えていると思う。
その弱みが、爆発的に市民に浸透していかない壁、そのものだ、きっと。

それをふまえても、どかは今夜、楽しめたと思う。
それは身体、訓練された身体だ。
"discipline"という単語を連想させる、その身体の鍛え方。
それは常人にはすぐにはできない、動き方だ。
どかには「物差し」が見えないからその"discipline"が、
どこへ向かっていくのかは分からないし、見当すらつかない。
でも、出発点からどれだけ遠くにたどり着いているかは分かる。
それは少しでも身体を使っているヒトなら、誰でも分かる。
耕ちゃんがどれだけ歩き続けてきたのかは、その苦労は分かる。
例えば靴のくたびれ方で旅人のキャリアが分かるように?

だからどかはこの舞台に共感したし、その一点においてどかは、
今夜の体験を肯定できると思う。
ま、おしごとでじゃっかんくたびれてて、少し居眠りしちゃったことは、
正直に申し上げまするですが。

いやー、でも耕ちゃんがあんなに重要なポジションで出てくるとは。
もう、ホントに、飛び道具だったなあ、彼は。
テンションも一瞬切れそうかなと見てて思ったけれど、大丈夫だった。
ホッとして、拍手できた。


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