un capodoglio d'avorio
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2004年06月29日(火) 企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 4

(続き)

もいちど、野島サンのこの作品におけるテーマをどか風にパラフレーズするとこうなる。

  いままで、ずっと自分の課題として持ってきた、
  <情緒レベルによる選民思想>という緩やかな袋小路を、
  再度明確に自分の中で意識すること。
  そしてこの<情緒>という概念を<芸術>という、
  ある種極めつけの<尺度>でもって検証すること

ラストシーンで、仮に芯也が虚空に向けて銃を放ったとなると<芸術=♪グロリア>が二人を安易にハッピーエンドに導いたことになってしまう。

違う。そうじゃないんだ。

葉音を殺すという最低のバッドエンドを回避することができても、最高のハッピーエンドにまで昇華させるほどの力は、<芸術>には無い。少なくとも、野島サンはその力が無いということを、間違ってもその力があると誤解してはならないということを、この脚本の執筆を通じて知ったはずなのだ。ましてや、、、「真実の愛」がどこかにあるとして、それはこの世では実現できないということは、『高校教師'03』や『スワンレイク』で実証済みである。

故に、芯也は、ここで死ななければならない。ましてや、芯也は「芸術(=感受性)」の名の下に殺人に殺人を重ねてきたのだ。鍵二とともに<選民思想>をもっとも良く体現してきた芯也はいまここで、救われても良いことは認めるが、生き延びることは断じてできないはずである。

もちろん、これはどか個人の仮説だけど。『仔犬のワルツ』のテーマが<愛>ではなく<芸術>だったという前提の上でのね。まあ、二人とも助かったという結末でも、もちろん構わないんだけど、でもそう採ったときには、このドラマの評価というのは、これまでの野島ドラマと比べて低いモノにとどまらざるを得なくなるのは間違いない。それこそ、そういう<愛>のもっと先の地点を、野島サンは10年前に『この世の果て』で描いているわけだし。

緩やかで曖昧な袋小路を、はっきりと屹立した袋小路として認識することからしか、私たちは次の風景を想像することすらできない。野島サンは今回の作品で自分の袋小路を明確な限界を見定めることに成功した。しかし、まだ希望は無い。恐らく来年の1月、もしくは4月にまた、野島ドラマが始まるだろう。そのドラマで彼が、どういう世界を展開してくれるのか、どかは本当にドキドキしながら心待ちにする。

そしてそのとき、今回の視聴率、野島サンが関わったドラマとしては過去最低を記録した視聴率が、野島サンの足枷にならなければいいなあと切に希望する。あまりにモダニストで、あまりにペダンティックだけれど、でも彼自身が、自分の理想、自分のモダニスムを破砕して分解してバラバラにしたのちに、幼稚園児が積み木で遊ぶときのようにもう一度組み立てようと必死になる姿というのは、現代においてそれなりに普遍的な意義を持つと思うからである。

野島伸司には、アクチュアリティがある。少なくとも、いま現在ドラマの脚本を書いている人間のなかでは随一のアクチュアリティがある。どかは、そう思っているのです。


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