度々旅
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論文を提出して一ヶ月半近く。とうとうこの日がやってきた。口頭試問の日である。長かった学生生活のしめくくり。1時間半の集団リンチ、もとい教授達との面接。恐れていた程のことはなく、なんとかやり遂げた。 面接官のうち、二人の教授は、卒論のときの口頭試問と同じ教授。あの頃より成長し、勉強し、考えることができるようになったと言われたのは嬉しかった。そして、「面白かった」この一言をもらえた。もちろん、たくさんの注意を受け、指摘を受け、批判を受け、整合性に欠けている点を指摘され、納得するところもあり、自分の未熟さを感じるところもあったが、最終的に述べたかったことを述べた満足感は格別だ。 指導教授じゃなかったのに、あたしの卒論を一人の教授が覚えてくれていたことも嬉しかった。そして、一貫して一つのことに拘って研究していたということを評価してくれたのは有難かった。指導教授からは、この話は難しいのでこれだけで言おうとすること自体に無理があり、それゆえに整合性に欠ける点が出てきているように思うと言われた。それは、自分でも感じていて、この話をこんな簡単にまとめるべきではないし、実際にはまとめることができないとは思っていた。けれども何かの形にはしたいし、どうしても一歩でもこの研究を進めたかった。あまりにもでっかい題材なので、何度も離れようと思ったが、違うことをやりながらも結局そこに辿りついてしまい、題材というか、研究目的は結局卒論のときと同じことになってしまった。指導教授はそれを執念と言ってた。そうかもしれない。なんで、このことに拘っているのか、なぜこのことに拘ってしまうのかわからないけれど、あたしはどうしてもそのことを考えたかった。難しいと何度も言われたけれど、逃げずにやったということは今後の自分にとっても大きい。 最後に「今後もこのことを考えていくのですか?」と教授に言われ、「たぶんずっと考えていくことになると思います」と言ったとき、ニコっと笑った指導教官の顔は忘れられない。あたしがやっている学問はそういう学問だ。答えがない。だから、いつまでも続いていく。そして、いつまでもすっきりしない。論文を書き終えたときも、今日も終わったという実感はない。論文を書くことは一歩歩いただけで、それが前か後ろかもわからない。 ただ、少し寂しさがある。もう追われない、必死に考えることを強要されないという寂しさだと思う。今後考え続けたとしても、それをどこかに出さなければ批判もされず、自慰行為にすぎないかもしれないという寂しさなのかもしれない。 面接の後の研究室で、改めて一人の教授に面白かったと言われたのは本当に嬉しかった。先輩に、野心のない論文は最低だと言われた。未熟なあたしが、野心だけは捨てずに、諦めずに、その未熟さの中でもがきながら述べた言葉。それを読んでもらい、批判してもらい、評価してもらえた喜びは大きい。
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