窓のそと(Diary by 久野那美)
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公演が終わって3日たって。 ちょっと人心地ついてきた。 初日が明けてからの、この、生きた心地のなさは、いったいなんだったんだろう?生きてるってどうするんだったっけ?という感じ。
3日たって。ようやく、人間の言葉が出てくるようになった。
生き返ったと思った。 空気を吸ってる。と思った。 生きてる、と思った。
落ち着いて考えれば。いったい何をそんなに途方もなく生きた心地がしなくなる必要があったんだろう?30分の公演を2回、小さい劇場でやっただけじゃないか。
創るというのは、ずっとむこうにある、手の届かない遠くの場所に軸を置いて前進する行為だ。論理的にあり得ないことだ。 ここが限界で、今はこれ以上は絶対に無理なのだと思う、その先にあるものを根拠にして進む。それでも進むのだから、何か重要なことが先送りにされているのだ。
演劇は、創り始めてから創り終わるまでに、時間と、自分以外のひとやものとの関係がたくさん、要る。そのあいだ、ずっと、ここにないものを足がかりにするわけだから、超アクロバット状態で数カ月過ごすことになる。何もかも先送りにして、先送りにしたものを全身で信頼する。
全身全霊で信じたからといってすべてが清算されるわけではなく、未払いのまま残されるものは必ず、ある。未払いだからといって、いまや何も返すことはできず、ただ、それを確認して見ていることしかできない。 ひとりで、見ていることしかできない。
本番が終わってからの時間は、ただただそのことに耐えるための時間のような気がしている。だから、生きた心地がしなくても、しょうがないのだ。
だけど。 ここまでとんでもなく気違いじみた生きた心地のしなさは、とても正しいことのような気もしている。 なんなんだ?この生きた心地のなさは?と思いながら、でも、どこかでほっとしている。この3カ月は、私的には正しかったのだ。 こんなささやかな作品でも、創るというのはそういうことなのだ。
思えば、前回の公演もそうだった。 その前も、その前も。 外から見ればきっとばかばかしいことなんだけど。 私の中で起きてるだけのことなんだけど。 でも、私の中でひそかに必ず起きてること。
創るたびに毎回死ぬのだと思う。 運よく生還したら、次のものが創れる。 そういうことなく何かを創ることができるのだとしたら、 創り手は簡単に人だって殺せるだろう。
こんな風に考えなくても、もっと別のやり方があるのかもしれないけど、ほかに正しい方法がわからない。
でも、ちゃんと、今、生きてる。 生き返るのが少し、うまくなった気がする。
・・・・・・・・・なんか変な日記。
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