脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 人の気持ちの推察の限界

人の気持ちを推し量るとき、
基準になるものは自分の持っている気持ちの感じ方しかなかったりする。
だから、難しいのだが
人の感じ方すら千差万別で、そこにはおそらく普遍的なものは見つけにくくて
だから
「自分がこう思うから相手はきっとこうだろう」
とかいえない難しさが存在する

「人にされていやだと思うことは人にはしないようにしましょう」
って、誰が言い出したんだろう。
「人にされて嬉しいことは人にもするようにしましょう」
なんて言葉はあったっけ。
それって一体、どこまでさ。
そりゃ、例えば「家の前に生ゴミが置かれて」たりするのは私もいやだしほとんどの人はいやだろう
それじゃ、気持ちに深く入り込むような微妙なラインではどうなるんだろう。
例は、挙げにくいけれど。
ある人にとってはちょっと嫌だなと思うことでも、ある人にとっては嬉しいことだったりすることもある。
「嬉しいこと」についても難しいな。
自分なら嬉しくても、相手も必ずしもそうとは限らない。
何を頼りに考えればいいんだろう。
自分が知っている「その人」であったって、自分が知っているのは自分が知っている範囲でしか存在しない。
自分が知っているその人が、その人の全てであるなんて到底あるはずがない。
頼りない情報。それに入る自分のその人への主観が、頼りなさに拍車をかける。
更に気持ちを推察するときは、自分と照らして考えたりする。
一体、何について察しようとしているんだろうか?そこに一体何の存在が在るんだろうか。
私は、人は、ほんとうに「その人」のことを考えているんだろうか。
自分の気持ちを考えて、それを基準にしてみて、それならそこに存在しているのは「その人」ではなく結局「自分」なんじゃないだろうか。
たとえば自分の心だって、自分で確信しているわけではない。更に変動するものだ。
そんなものが、どうして他の人に推察できようか。



じゃあどうすればいいんだろう。
ちゃんと判るわけじゃないんだから、判らないまま生きていけばいいのかな。
そもそも、判ってくれというほうが甘えた論理なのかもしれない。
人が人のことを判ることができなくて当たり前で、
それでも判ろうとするいじましい気持ちがそこに存在するせめてもの救いなのかもしれない。そこに恩着せがましさが存在するのはいただけないけれど。
「判ったような気持ち」ってのはある意味押し付けになって迷惑かもしれないし危険だけど、
たとえ判らなくても、相手のことを想うことはいくらでもできる。
だいじだから、だいじにしたいから、その人たちの事を考えるんだよね。
そしてその気持ちが本当であればあるほど、それを無下にされることほど淋しいことはない。
ああ無意識とは本当に、効果が強いぶん諸刃の剣だ。
無意識というのは良くも悪くも率直で素直なものだから、
そのぶん相手に届きやすい。
それが相手にとってよいことならいいけれど、
よくないことであればこれほど始末の悪いものもないね。

2005年07月23日(土)
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