 |
 |
■■■
■■
■ 昇らせぬ願い
口にしてしまった「おねがいごと」「叶えたいこと」は、叶わなくなるような気がする。そういう類のねがいごとというのは、あるような気がする。
それは勿論、口にしたほうが周りの協力や動きを得られて叶えられる時期とか、そういうたぐいのねがいごとというのもあると思う。 けれどここで言うのは、そういう具体的なものではなくて、もっとぼんやりした、けれどゆずれないもの。
ねがいごと というのは、一体どの時点で現実視されてしまうのか? どの時点で、「目標」の認識を強制的に受けてしまうのか?
頭の中にあるうち、こっそり自分ひとりで呟くうちは、まだ自分以外の誰にも現実のものとして認識されていない。 なにごとも、話さなければ、あったことにはならない「考え」というのがある。
誰にも悟られなければ、自分だけでその「ねがいごと」は、「ねがいごと」のままあたためておける。 ひとたび自分以外の存在に認識させてしまうと、途端にその「ねがいごと」は現実味を帯びなければならない様相を呈してくる。
「こどもの持つ夢」でなく、「大人の目指す目標」に置き換えられてしまう。
けれど、何も具体的に叶う方策がないままに「ねがいごと」をただ口にしても、叶わずに終わる気がする。宣言だけで気が済んでしまって、終わる事がある気がする。 ある程度対策を固めて、具体的に見据えられるようになって初めて口にしたら、叶う射程距離内に入る事ができるように思うけれど。
けれど、「ねがいごと」というのは、そう簡単に叶うものばかりでもないもので。 でもだからこそ、自分の中だけで握り続けた「ねがい」への想いは、確かなものになっていく気がするので。 そして、不要な「ねがい」はそのうち消えていって、本当に大切な「ねがい」だけが残るような気もするので。
祈るように自分のなかで、「ねがい」を握りしめ続ける。
なにが本当に大事か、静かに問いを繰り返しながら。
「ねがいごと」を口にするのは、本当は、叶ったあとぐらいでちょうどいい。
2010年07月05日(月)
|
|
 |