脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


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 昇らせぬ願い

口にしてしまった「おねがいごと」「叶えたいこと」は、叶わなくなるような気がする。そういう類のねがいごとというのは、あるような気がする。

それは勿論、口にしたほうが周りの協力や動きを得られて叶えられる時期とか、そういうたぐいのねがいごとというのもあると思う。
けれどここで言うのは、そういう具体的なものではなくて、もっとぼんやりした、けれどゆずれないもの。


ねがいごと というのは、一体どの時点で現実視されてしまうのか?
どの時点で、「目標」の認識を強制的に受けてしまうのか?

頭の中にあるうち、こっそり自分ひとりで呟くうちは、まだ自分以外の誰にも現実のものとして認識されていない。
なにごとも、話さなければ、あったことにはならない「考え」というのがある。

誰にも悟られなければ、自分だけでその「ねがいごと」は、「ねがいごと」のままあたためておける。
ひとたび自分以外の存在に認識させてしまうと、途端にその「ねがいごと」は現実味を帯びなければならない様相を呈してくる。

「こどもの持つ夢」でなく、「大人の目指す目標」に置き換えられてしまう。


けれど、何も具体的に叶う方策がないままに「ねがいごと」をただ口にしても、叶わずに終わる気がする。宣言だけで気が済んでしまって、終わる事がある気がする。
ある程度対策を固めて、具体的に見据えられるようになって初めて口にしたら、叶う射程距離内に入る事ができるように思うけれど。


けれど、「ねがいごと」というのは、そう簡単に叶うものばかりでもないもので。
でもだからこそ、自分の中だけで握り続けた「ねがい」への想いは、確かなものになっていく気がするので。
そして、不要な「ねがい」はそのうち消えていって、本当に大切な「ねがい」だけが残るような気もするので。


祈るように自分のなかで、「ねがい」を握りしめ続ける。

なにが本当に大事か、静かに問いを繰り返しながら。



「ねがいごと」を口にするのは、本当は、叶ったあとぐらいでちょうどいい。


2010年07月05日(月)
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