2002年06月01日(土) |
「消しゴムのくずを床に落さないでください」 |
最近このコーナーも、日記というより随筆になりつつあります・・かねてから随筆を書き たいと思っていたので、とても好都合な場なので、思い切り随筆しようと思います。
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私は、他の人から、不思議な人だ、とか、なかなか分からない、という言葉をよく聞 くので、 どうしたら、理解につながるのだろうか?という、わらにもすがる思いにおいて、自 分の分析をし、文章にしてみようと思っている。
小学生のころ、下校前に「反省会」というのがあった。その日一日の学校生活の中 で、好ましくなかった「他人の」行動について発表し、指摘された当人は、それをク ラス全員の前で認め、謝罪する、という習慣である。
今思えば、そんな、他人の検挙大会のようなことをして、小学生にとってどんな意味 があるのだろう?と疑問に思う。自分のした行動について、「ここがいけなかったと 思うのだが、皆さんどう思いますか?」というような自主的な反省会というもののほ うが、効果的だったのではないだろうか。
そんな文句はさておき、その会の時間になると、私はいつも、説明しがたい不満感を いだいていた。当時小学一年生だったので、反骨精神の第一歩を踏み出すことにつな がる経験だったのかもしれない。「木村くんが、朝の掃除当番をさぼりました。」 先生:「木村くん、本当ですか。」木村君は、立ち上がりながら、おどけたように 笑って見せる。木村君:「はい。もうしませんから、許してください。」こんなこと の繰り返しだった。生徒は、他の生徒たちの「悪事」を我先に検挙し、してやったり という顔で、そして普段気に食わない相手に対する腹いせの意味もあり、その会では 毎日何人もが「検挙」されていた。私はそれを、「おかしな習慣だな」と思いなが ら、見ていた。そして、ある日、私は突然「検挙」された。検事は、当時友達の少な かった私にとって、唯一、友達づきあいをしている(つもりだった)、Kちゃんだっ た。「岡さんは、今日、消しゴムのくずを、机の上から、床に、おとしていまし た。」と発表した。私は、ショックだった。「どうしてそんな些細なことで・・」と いう疑問も感じたそして、それよりも、(いつも、一緒に登校してくれて、たった一 人の友達だと思っていたのに…Kちゃんは、私のことを嫌いになったんだろうか。) という、裏切られたような気持ちでいっぱいだった。「岡さん、本当ですか。」先生 の声が冷徹にひびく。私は、寂しいような、腹立たしいような、納得のいかない気持 ちで立ち上がり、小さい声で言った。「はい…もう、しませんから、許してくださ い。」 それから、私は、学校で口をきかなくなった。(いや、正確には、他にも要因は幾つ かあったのだが)
その反省会の出来事と連動するのは、「人からの指摘」に対する、納得のいかない気 持ちや、信じていいのかどうか戸惑う気持ちは、そこからも起因しているのではない だろうかと思う。 本当は、Kちゃんも、私のためを思って、消しゴムのくずを床に 捨てないように、と教えてあげたくて、とった行動なのかもしれない。しかし、私自 身、素直に受け止められなかった。今でも、まだ、そのときの気持ちを、確認したい ように思う。
そして私は、そういう「検挙大会」のような儀式を、生まれてからまだ六、七年の人 間に、課すという、当時のクラスと先生に対して疑問を持つ。「本当に自分で考え、 反省する態度」を身につけるには、「まず自分で、自分がしてしまったよくないこ と」について認識しなくては、修正されないのだ。「どうして消しゴムのくずを捨て てはいけないの」「先生におこられるから。」という、「先生におこられる」という 事実が善悪の根拠になる。そして、「先生」という存在のいなくなったとき、「自分 をおこるものはなくなった」ので、善悪の判断を超えた、いわゆる仕返しのような心 境が生まれる。サル真似の反省大会というのは「ごめんなさい」と言葉では言うが 「本当は悪くない」と思っている場合なのであって、その場合、次からも同じことを 繰り返す。
このように分析するのは、本当には何がよくて何がわるいことなのか?ということ を、私がまだ認識できていないからである。 人の中で生きることについては、まだまだ修行が必要なようである。
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