純物質の恐怖�� - 2004年10月09日(土) どんな状況でも、恐怖を感じなければ人は平然と冷静を保つことができる。 恐怖を感じなければ、だ。 未知なる状況にも対処できる理解と力と自信があれば、何事でも恐れることはない。 気圧されたら、それはひとつの敗北。特に空想ではない現実の世界においては、それはひとつの真理でさえあるのかもしれない。 誰もが知り得ない世界を知り、理解する。体験で感覚できれば、それは力への扉。自身の力で勝ち取る経験が、自信を生む。 >>> 真実は存在する。闇の中にも、光の中にも、、、 “心の『壁』の奥深くに隠されている闇にこそ真実がある”と誤解されている世の中だけど、それは人が「そうであってほしい」と願うから。「そうであってほしくない」の裏返しだから惹かれる。 真理に感情の入り込むスキマは無い。だからこれは間違い。「ここに真実が存在する」というだけでは、「ここにあるものこそ(だけ)が真実だ」ということの証明にはならない。 証明という言葉を持ち出しておいて勘で話をするのもどうかと思うけど、僕は信じている。人の心の闇の中にだけではなく、人と人のつながりに存在する何かの中にも真実が存在すると。真理は「真実であるから」という理由のみで唯一なのであって、どこか1箇所のみにその身をおいているのではないということ。どこにでも、何にでも存在し、そして“ひとつ”。信じない人もいるだろう。でもこれが正しい。信じている。間違いない。信じている。正しい。信じている。正しい。間違いでは、無い。 世界の大多数の人間の本質、それは『闇』。それに対する『光』はエネルギー。闇が渇望する光明。だから、人は、心のなかの幽かな希望に身を委ね、たり、いつか射すだろう太陽の光を待ち焦がれ、る。幽かな光を信じたいと願い、混沌ではなく純粋な闇へ、自身の心を導く、カタチも、あるだろう。より多く、より強く、闇を認識しないほどに、光を集め、集め、集め、純粋な『光』たろうとするカタチも、あるだろう。でもそれらはすべて、同じこと。 純粋な光も闇も、“それ以外に何もない”という意味で、『闇』なのだから。 光と闇という言葉が出てきたときにイメージする風景はどうだろうか。きっと、「暗闇を照らし出す光」「闇の中で瞬く光」「射しこむ光明」といったものだろう。そこに真理が投影されている、それは、「光と闇の対比が描かれている」、という所。人間の思考、行動、感情は、純然たる唯一論の中には、無い。 対比、混沌。純物質で構成された混合物の中に真理がある。純物質そのものの中ではないのだ。 >>> 恐怖を克服するために。死をおそれないために。 答えの中に答えを探すように、ただひとつを永遠に求め、自分を没入させる行為は、人間を人でないものに変えてしまう。没入に没入を繰り返して何かが得られたとしても、最後には死の恐怖が訪れる。体験したことはないけど確信、している。 純物質を追求しないことだ。すべては『混ざり物』であることを理解することを追究すべきだ。 …てことはアレだ。真理というモノも純物質な訳で。矛盾してるなぁ。でもそんなもんか。世界は『混ざり物』なんだから。矛盾もまた、真理だ。はっはっはっ。 ...
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