ディリー?闇鍋アラカルト
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僕は日本人である事を嫌っていた。 日本人であるという意識が希薄だ。 けれども、今は日本人である事を嫌っていない。 日本人という意識は相変わらず希薄だけれど。
こうした変化は、人間の捉え方が広くなって来た事とも関連があるかも知れない。 それは、大多数や主流以外の存在を以前より意識出来るようになった為だ。
僕が好きな折り紙・・・これは確かに日本に特徴的な文化だ。 僕の中に日本という地方に特徴ある審美的な感覚がある。 園芸の趣味もそうだ。ガーデニングじゃなくって、日本的な園芸の審美感覚。それでいて、盆栽は嫌いだったりして・・・ 僕の食生活の組み立ても日本的なものが基本になっている。 家の中まで靴を履くような生活よりも、家の中では裸足の方が好きだから畳のほうが好きという事になる。
このような文化を伝え続けてきた日本人・・・・このような側面を以前は余り注目していなかったような気がする。
島国根性・どこに行くにも固まって行動する・眼鏡をかけて(最近はコンタクトレンズが多くなったと思うが)首からカメラをぶら下げて・・・というような日本人論的日本人たちは多くの日本人たちのスタイルであっても、それが日本人のすべてだというわけじゃない。 むしろ、多数派・主流派以外の系譜というものが連綿と続いているようにも思える。鎖国の時代の蘭学者や樺太が大陸と繋がっていない事を発見した間宮林蔵のような存在、良寛のような存在・・・そうした人たちが日本の歴史の主流ではないにしても、確かに日本人たちの心に影響を与えているように思える。 そういう蓄積が歴史の転換点に於いて重要な働きとなるような気がする・・・・
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