Turn, Turn, Turn
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2003年04月18日(金) |
シーンの反映としてのクラブ・スヌーザー |
盛りあがった! マジ盛りあがった。今回のクラスヌは。寝不足&過労気味の不利な条件下で臨んだんだけど、途中休憩してうとうとしながらも最後まで楽しかった。
っていうのは、今のシーンの詰まりに詰まった濃密な反映だったからだよ、今回のクラスヌは。90年代から真剣に音楽に染まっていた人にとっては、今のロックンロール・リヴァイヴァルというかルネッサンスは、当たり前に盛り上がってしまうもの。それは俺も同じ。
その現象のイギリス代表といっていい、ザ・リバティーンズのライヴは恐ろしくすごかった。めちゃくちゃに良かった。今の俺ら若者世代のバンドってのを改めて実感。ピストルズやクラッシュの衝撃や知性や破壊性をリアルタイムで体験できなかった俺らにとっては、それを現実に見せてくれるリバティーンズには惚れるしかないよ。俺らの世代に、初めて目の前に現れてくれた、パンク。ヘタクソさや投げやりな態度が全てプラスに働いてクソカッコイイっていう一点に集約されるのは、奇跡的だな。神に選ばれている。
まあ、めちゃくちゃな例えかもしれないけど、リバティーンズの鳴らすパンクは料理と同じ。ある時代のシーン、例えば今なら2003年のシーンがあるとして、それをある料理の作られる背景や目的としてみる、と。それは新しい材料が使われたり、新しい調理法が用いられることかもしれないけど、それと同時に塩や砂糖、醤油やコショウ、唐辛子なんてのが使われるのは恒久的には変わらないだろう。料理を食うのは永遠に、人間だし。その塩や砂糖とかの調味料が、ザ・リバティーンズの音楽の本質なんじゃないの? 多分オアシスもそっち寄りだな。味の大半を決めるのは調味料であり、そして、人間が求める味は、簡単には変わらない。ロックの歴史なんて100年にすら満たない。なんも変わってないよ。
クラスヌの話に戻ろう。リバティーンズのライヴが終わり、少しタナソウが回した後に、なんとマンドゥ・ディアオがステージに登場。こいつらもまたクソカッコイイ。北欧の白人、反則。そんとき流れてたのは、オアシス、シガレッツ&アルコホール!! タナソウ、ベタですなあ。だけどどんぴしゃにはまってたなあ。今回、二度ほどマンドゥ・ディアオの曲が回されたけど、まだアストロホールの一度のライヴと輸入盤だけの日本での展開で、これだけ沸くのはどういうことだ? 曲自体の良さか? それともみんなすでにチェック済みなのか? すげーなスヌーザー読者。
いや、でも、本当、マンドゥ・ディアオは良いよ。オーラあったもん。タナソウが「親を叩き売ってでも観ろ」と口角泡を飛ばしたそのマンドゥ・ディアオの狂騒に沸く、俺と同じかそれより少し下くらいの若い社会人、大学生の姿を見て、同時に俺も沸きながらも、ああ、そうなんだよなって思った。
それは、歴史は、ロックは繋がれていくっていうこと。ロックを、ロックンロールを求める少年や少女がいる限り、ロックは死なないで、繋がれてくっていうこと。
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