2002年10月18日(金)
1456年 京都の足利幕府の命をうけて武蔵の川越にいた上杉定正は、当時関東公方足利成氏が幕府に離反して下総の古河に拠っているのに対抗するため、家臣の太田資清の子、資長(のち入道して道灌)に江戸城を築くことを命じた。
1457年 道灌は約一年間を費して、江戸城を築き、これに住んだ。
1486年 道灌は主君の上杉定正に招かれて相模の糟屋館に在るとき、その定正のために暗殺され、江戸城は上杉の直接支配となって城代(曽我氏)が置かれた。 1505年 上杉定正の没後、上杉朝良が入城し、およそ20年間扇谷上杉氏の本拠となった。
1524年 小田原に本拠を持つ北条氏綱が、上杉氏を攻略してこの江戸城は北条氏のものとなり、それから約七十年余の間、北条氏の東北辺の要害となった。
1590年 豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め亡ぼしたのであるが、これより2ヶ月半も前に江戸城は既に豊臣の軍に降伏し、開城していた。 秀吉は小田原戦役の論功行賞として、徳川家康に北条の領地であった関東八ヶ国を与え、江戸城を家康の居城とすることにした。 家康が入城した当時の江戸城は、いまの旧本丸と、二の丸、三の丸の区域であって、構えは小さく、濠も狭かった。
1606年 いよいよ江戸城の大修築が始められた。 全国の大名のほとんどを動員して本丸、二の丸、三の丸の構築をはじめ、天守閣の建造、数多くの楼閣殿舎の建築、さらに桜田門から半蔵門に至る内濠や、雉子橋から溜池にかけての外郭を完成した。
1629年 三代将軍家光は、約八か年にわたり、従来よりも一層きびしく、また広範囲に全国諸大名を動員し、莫大な金銀を費やして江戸城内外の大増築をした。36年完成。
1657年 明暦の大火により、天守閣焼失。
1868年 江戸城は無血開城となり、朝廷の手に収められた。 明治天皇は初めて京都から江戸城に入り、同時に「東京城」と改められ、本丸は火災で焼失したまま復旧していなかったので、西の丸の殿舎を仮の宮殿とし、西の丸大手門(二重橋の門)を宮殿の正門と定められた。
1872年 内郭、外郭の存廃がきめられ、神田橋、日比谷、数寄屋橋、鍛冶橋、呉服橋、雉子橋、常盤橋、一つ橋等の諸門は廃止となり、その影を没した。
1873年 お局方面から火を発し、この仮の宮殿も焼失し、赤坂離宮が仮宮殿となった。
1889年 宮殿の新建築が完成したので、天皇はこれに移った。
1945年 昭和20年5月25日の空襲の飛火により表宮殿、奥宮殿ともに焼失。天皇は吹上御苑の御文庫で暮らした。
1948年 宮城を皇居と呼ぶこととなった。
1960年 皇居の石垣、門などを江戸城史跡に指定した。(1963年には特別史跡となる。)
|