2005年08月13日(土)
1985年8月12日、午後6時56分、日本航空・東京-大阪123便が御巣鷹に墜落した。
あの時、私は何をしていたのだろう。 上の娘がもうすぐ2歳、息子を妊娠中で、この夏は梅雨明け宣言があった日から重度の悪阻に苦しんでいた。 あの夜、娘の夕食を食べさせ、まだ帰宅していなかった夫を待ちながら、ぼんやりと見ていたテレビから流れてきたニュース速報。 その時も悪阻で横たわっていたという記憶はない。 実際にはそうだったのかもしれないが、それが記憶には残らないほど、それほど衝撃的な速報だったのか。 確か最初の一報は「レーダーから消えた」というものだった。 「レーダーから消えた」ってどういう事? でも、レーダーから消えた=墜落ということではない。 もしかしたら、どこかに不時着している?
そのうち、ニュースは「墜落したもよう」に変わったけれど、墜落現場を特定できないという。 私の頭の中では、粉々になった飛行機など想像できなくて、何故あんなに大きな物体の墜落現場が特定できないんだろう・・・と思っていた。
乗客・乗員名簿が発表されて、当時私には数人日航のスチュワーデスの友人がいたので、先ず彼女たちの名前がないか探した。 520名の被害者に、直接の知り合いはいなかったが、夫の仕事関係の会社の方とご家族は犠牲者となった。
翌日、奇跡的に助かった4人の救出活動を見ながら、あの惨状の中で4人が助かっていたのだから、生きて救出を待っている人がいるのではないか、と願うような気持ちでテレビを見ていた。 何人もの「航空評論家」が登場して、事故原因を検証する日々。 圧力隔壁・金属疲労・ダッチロール・・・初めて聞いた言葉だけど、流行語のようになった言葉。
中々遺体確認ができない日々が続く中で、機長の遺体が確認された。 当時、我が家の隣に住んでいた、航空会社は違うといえ、同じパイロットの奥さんが、 「まだ遺体の確認ができてないご遺族には申し訳ないけれど、最後まで未確認のままで残らないよかったわ。 乗客の場合とは違って、最後まで未確認で残ってしまうと、切り捨てられてしまうから。」と言った。 「何故?同じ被害者なのに・・」という私の問いに 「たとえ、事故原因が操縦ミスでなかったとしても、乗務員、特に機長の家族は遺族であっても被害者ではないの。 きっと遺体確認も乗客の遺体確認が行われていない夜に行われているはずよ。それが現実なの。」と呟くように言った彼女の言葉、今でも忘れる事はできない。
5年前に公表されたというボイスレコーダー。 私は、文字化したものを何度も読んだ覚えはあるけれど、昨夜放映されたあの事故の追悼番組で、コックピット内の肉声を初めて聞いた。 けれど、コックピットに無常に響いていた警告音だけは、何故か耳の底に残っていたような気がする。
あの時、誰もが2度とあのような悲惨な事故を起こしてはならないと思い、空の安全を願わずにはいられなかった筈である。 しかし、そのための事故調査は、多くの謎を残したまま、終了してしまい、この20年の間に、資料も封印され、今また、修理ミスがあったとされた圧力隔壁などを除いた残りの機体について、将来、廃棄するという方針をあらためて示している。
昨夜、あの事故から20年目、日航の社長が8年ぶりに、事故当日に慰霊登山をして、遺族に交じり、墜落地点に設けられた「昇魂之碑」に献花、黙祷し、520人の御霊を前に、あのような事故を二度と起こすまいと強く誓った。 しかし、その日にまた、日航は飛行中エンジンから出火、多数の金属片が落下するという事故を起こした。 この日ばかりではない。 日航は今年に入り、運航トラブルが相次いでいる。
20年前の日航機の墜落事故は、絶対に風化させてはいけないのである。 実際に事故が起こり、尊い人命が失われてから悔いても遅いのだ。
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