2003年07月16日(水) |
SSS#52「瀬戸口×速水 切なく」 |
【向日葵の理由】
「速水。もう別れよう」
酷く驚いたときだけではなく、そんな風に言われた時も息が止まるんだということを、初めて知った。
図書館という所は、静かに見えて実は喧騒に満ちている。 誰かの咳払いや本の頁を繰る音、衣擦れの音、小さな囁きの会話、そんな音が絶えずしている。 速水も今はその音源のひとつだ。 目の前には、真新しいレポート用紙と、棚から借りて来た数学の問題集。先ほどから同じところばかり計算してしまって、ちっとも進まない。 速水は同じ数字を五回書いてしまったところで、シャープペンシルを放り出した。 全くどうにもならない。 小さく伸びをして、周囲を見渡す。 専門書の数多く置いてあるこのフロアの閲覧用デスクは、ほぼ満席だった。 どこの学校でも、このころが試験の期間らしい。 ただ、速水の向かいに座る見知らぬ学生は、席に座って参考書を開くなり寝っ放しでぴくりとも動かない。 速水は小さく溜息をついて、もう一度レポートに目を落とした。 勉強しなくてはいけないのに、全く違うことばかりが頭をよぎる。
『な…んで…っ。 僕、何か怒らせるようなことした?』 『別に。ただ、もう飽きたんだ』 『ごめん…なさいっ』 『何謝ってるんだ』 『ごめんなさい!僕、何でも瀬戸口さんの言うようにするからっ。 嫌いにならないで!』 『もういいよ。 もう好きじゃなくなったから、そんなこともういい』 『瀬戸口さん!』 『じゃあな、速水。 今まで楽しかったよ』 『待って! そんな…やだよ!!』 『…聞き分けろよ。 もう好きじゃないんだって。だから終わり。 悪いな』
思い返すほどに、鮮明になる言葉。 速水はその場で声をあげて泣きたかったけれど、涙が出て来なかった。 だから、その時の胸が裂けてしまいそうな思いは、今も苦しい塊のまま、速水の胸に詰まっている。 速水は数学の勉強を諦めて、椅子を引いて立ち上がった。 絨毯が引いてあるので、椅子の音や足音は殆どしない。 勉強道具をそのままに、速水はぶらぶらと書架の間を歩き始めた。 瀬戸口と付き合っていた頃には、授業をさぼりがちの彼を無理やり引っ張ってきて、ここでよく一緒に宿題をした。 折角勉強するために連れて来たのに、瀬戸口は居眠りばかりしていた。 目を覚ましている時は、速水の顔ばかり見ていた。 郷土の歴史の棚の辺りはあまり人が来なくて、書架の影でキスをしたこともあった。 頬に触れた瀬戸口の手の暖かかったこと。 好きだよと囁いてくれたその声の調子も、まなざしも。
「…う」
胸が詰まって、息が苦しくなった。でもやっぱり、涙は出なかった。 棚に捕まって、何かを堪える。苦しい事や痛いことは我慢できる。だってそれは我慢していればいつか終るってわかっているから。 けれど、この苦しみは。 どうしたら、終るんだろう。 いつになったら、終われるんだろう。
顔を上げた速水の目の前の棚で、一冊の本が不思議と目を引いた。 『ギリシャ神話と植物』という、綺麗な装丁の本だった。 それを棚から引き出して、それを抱えたまま棚を背にして座り込む。 表紙にちりばめられた、綺麗な花の絵。 速水はその中の向日葵を、指先でそっと撫でた。 瀬戸口がいつだったか、速水を向日葵のようだと言ってくれたことがあった。 明るくて綺麗な笑顔で、見てるみんなを元気にしてくれると。
ぱらり、ぱらりと頁を捲って、向日葵のところを探す。 そして…読まなければ良かったと後悔した。
『水の精クリティエは、太陽の神アポロンに愛されたが、やがて飽きられ捨てられてしまう。 しかし彼女は諦めることが出来ず、9日間何も食べず何も飲まず冷たい地面に座ったままで、愛する人を見上げつづけた。 やがて彼女はその場で根を生やし向日葵と姿を変えて、今も太陽の軌跡を見つめつづけるのである』
文字が、にじんだ。 あの頃の瀬戸口は、まだ速水を好きだったと思うから、きっと彼はこの神話を知らずにそんなことを言ったのだろう。 けれど…。
「ほんとに…僕に似ているね…」
呟いた自分の声が震えているのを、速水は自覚した。 嗚咽が漏れそうになって、片手で口を押さえる。 ぽつ、ぽつ、と、頁の向日葵の写真が濡れた。 自分が綺麗な人間じゃないことを知っていた速水は、綺麗なものに似ていると言ってくれた瀬戸口の言葉が嬉しくて、好きだといってくれたことが嬉しくて。 雛が初めて見たものを親と思うように、何の疑いもなくただ無心に彼を愛した。 そして、「もういらない」と言われた後も、ずっと彼の姿を追ってしまう。 もう二度と、振り返ってもらえることなんてないのに。
本を抱き締め、声を殺して唇を噛む。 やっと泣く事が出来たというのに、痛みは少しも軽くなりはしなかった。
***
「じゃあ、ここで」 「うん」 「…良い夢を」
赤い髪をした背の高い男は、自分に絡めた少女の細い腕を取って、優しくそれを外した。 彼女は一瞬切なく男を見上げ、黙って微笑んで背を向ける。 少女の後ろ姿が完全に消えてから、男はゆっくりと通りを曲がった。 曲がった先には、闇夜に溶け込むように黒い乗用車が彼を待っていた。 男が滑るように乗り込むと同時に、ゆったりと走り出す。 後部座席に座った彼は、鮮やかな夕暮色の髪をかきあげ深く息を吐いた。 運転手は毎回変わるルートを、ただ黙々と車を走らせる。 車窓に目を向けていた男の視界を、黄色い花が流れていった。
「…向日葵、か…」 「何か言いましたか?」 「いや」
青年は言葉少なに否定して、ふたたび窓を見遣った。 坂上が、サングラスの下から彼を見た。
「そういえば、『芝村』は小鳥の処分を今のところ見送ることにしたようです。 …貴方と関わりが浅くなったので」 「…そうか」
やはり一言だけで了承して、彼は一度だけ、運転手の顔をバックミラー越しに見る。 静かな声で、問うた。
「おっさん。 あの子は……生きて幸せになるべきだ。 …そうだろ?」 「そうですね。…幸せになれると、いいですね」
青年は一度だけ、闇夜を照らすように鮮やかに咲き誇る向日葵を心に描く。 そして顎を上げて真っ直ぐに前を向き、凛とひたむきに輝く瞳で目の前の暗闇を見据えていた。
Fin ―――――――――――――――――――――――――――――――
この日のSSSがお気に召しましたら
…瀬戸口が常に無くカッコ良さげなのは何故でしょう。 あまり出番も無いのに。 それとも出番が短い方が崩れる間がなくていいのでしょうか。 瀬戸口ファンとしては葛藤。
さて、このところ3日と空けずに飲み会が続いております。 また以前の残業残業飲み会残業残業飲み会という黄金コンボ(?)が復活してきていささか困惑気味。 というか、歓送迎会が多いんですね。 女の子がいっぱい辞めちゃってとても寂しいです。 折角飲み友達が出来たのに。 しょぼん; やはりこの会社の人使いが荒すぎるのだ。
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