| 2003年06月28日(土) |
安全でも適切でもないところへ |
It‘s not safe or suitable for swim.
江國香織さんの小説集のタイトルである。正式なタイトルは「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」。 保坂和志さんの文庫を全部「文庫本主義者」に奪われてしまい、かわりに勧められたのが江國さんの本だった。なぜかよくか勧められる。彼女が編んだ詩のアンソロジー「活発な暗闇」にしてもそうだ。
今回は指示が強い。「きっちり読むように」。あっという間に読んだのだけど、「あかん、もっとマジメに読め」と。んなこといったって、読めてしまうものはしかたあんめぇ。
「主義者」曰く、「ランディさんとも全然違う。わたしはこの人の文章の方が好きだ」と。 ぼくの感想は「まるで詩だ」ということ。それは「主義者」も認めた。 「こういういいのがあるから、散文形式の詩がいやなんや。中途半端やろ」とも。
ぼくが読んで思ったのは、文のリズム、長さ、スタイルが詩のようで、脈を打ってるような気がした事。ていねいな書きこみを全部取り外したら、散文詩になると思う。 このことでしばし話題が続いた。
「全体の構想はあるんだろうけれど、それがあるように感じさせない。淡々と日常が繰り返され、描写され、思い出したようにふっと『テーマ』が語られる。実はそれはけっこう重たいものなんだけど、それを感じさせない。すぐにまた、日常が語り出される。 たいていのミステリだとか小説だと、筋が追えて、次の展開が読めるんだけれど、読めない。読めないで終わる。だからつまらないと言うことはなくて、不思議な感触が残る」
だいたいこんな会話だったと思う。 「リアル」の一つの見せ方かもしれない。 「文庫本主義者」のもくろみはわかる。つまりは、こういうものを書けということなのだろう。ゴザンスで書いたものを、見せていないけれど、大筋ではぼくもそういうやリ方を目指している。
「詩」は、きっちりした形の「自由詩」。それ以外はもう少し長くしようと思う。 「散文」、のかたち。「掌編」と言うには短いから。「散文」のように散らなければ「掌編」。 原稿用紙で20から30枚ぐらいだろうか。
ぼくが今まで書いたものの中でいちばん長いので180枚ぐらい。とにかくなんでもいいから「三桁」つまり、1000枚の「物語」を完成させるというのも目標だ。 山上たつひこさんの「追憶の夜」が920枚。手にしたハードカバーが分厚い。1000枚はやはり、その長さだけでも一大事業だ。 これは大変だ。大変だけど、酒も呑まない、ゲームもしない、旅行もしない今なら、毎日数枚ずつ前進させてとにかく作り上げることができる。で、なんでもいいからとにかく1000枚の物語を完成するということは、ぼくを変える。ほとんど確信している。
昔書いたものをもう一度引っ張り出して書きなおそうか。今、真剣に考えている。 考える前にもう書き出してはいるけれど。
ところで江國さんの本。ぼくは結構気に入って読んでます。「文庫で読めよ」と遠くから声が…。
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