散歩主義

2005年08月30日(火) 「幸せ」と「仕合わせ」

「幸せ」と「仕合わせ」

普段、どちらの言葉を使うかというと「幸せ」だ。
ぼくは長いこと、「仕合わせ」というのは当て字だと思っていた。
だけどどうも違っていたようだ。

とても素敵なコラムを読んだ。
書かれたのは神戸女学院大学教授の内田樹さん。

内田さんは薪能で狂言「仏師」をごらんになった。
そこで聞いた狂言で用いられる言葉と現代語との比較から論は始まる。
例えば「やるまいぞやるまいぞ」というのは狂言で頻繁に出てくる言葉だけれど
これは「待てー」という意味。
「なかなか」というのが「はい、そうです」という意味。
これはわかる。

 で、この狂言には「しあわせ」という言葉が出てくる。
「何ごとにもさわたり、しあわせを直そうと存ずる」あるいは
「そなたはしあわせのよいおかたじゃ」

「仏師」という狂言のあらすじはここでは省くけれど、「しあわせを直す」とか「しあわせがよい」などと今では使わない。
これはどういうことかというと、内田さんは、古くは「しあわせ」は「仕合わせ」と書いたのだと教えてくれる。大事なところなので引用しよう。

…「仕合わす」、つまり「物と物をきちんとそろえる」を意味する動詞が名詞化したものである。「仕合わせ」は「出会うべきものを出会わしめる」他動詞的な結果をいったのである。…

引き続いて内田さんはこういう
…古語「しあわせ」に含まれていて、現代語「しあわせ」の語義から失われたのは、それは「しあわせ」が前提としたこの手間暇である。…

 つまり「仕合わす」人の意志と行動抜きでは「しあわせ」は存在しない、とかつての日本人は考えていたのである。

 だから現代のように抽象的な「しあわせ」ではない。待っていてくるものでもない。当人が働きかけるものなのだ。現代、不意に到来する「幸せ」があったとしても、それはまた不意に去っていくだろう。何故なら「仕合わす」ことをしていないからだ。

 また「仕合わせが悪い」ということに関して、そうしない自分が悪い、と気がつかない。たいてい、いつも誰かが悪いのだ。

 日本人はいつからか、こういう手間暇をかける習慣を失ってしまった、と内田さんはいう。確かに「幸せ」になりたいと誰もが思いながらも、その考え方そのものが漠然としていて、あるいは見えなくなって迷っている人も多いのではないか。
 こんな簡単な、だけど重要な言葉のすり替えを、いったい誰がしたのだろう。現代人は目くらましにあっているのではないだろうか。ぼくはそんな気がして仕方がないのだ。
そういえば、母が手紙には必ず「仕合わせ」と書いていたのを思いだした。

(参照・「人の意志を失った『幸せ』」京都新聞・8月29日朝刊より)

ここから通常の日記
am4:40 起床。珈琲。
am5:00 掃除。可燃ゴミの日。
am6:00 ハナの散歩。児童公園まで。帰ってから掃除と洗濯。
am7:30 朝食。ごはん、舞茸とカボチャのみそ汁。目玉焼き、フルーツトマト、ほうれん草とシメジのおひたし。ヨーグルト。

午前中 昨日書いた「散歩主義」の原稿をアップ手前にしておく。

正午。 昼食 トースト、チーズケーキ、珈琲。「それからのルル」をアップ。
     
午後 雨が降る。本格的だ。
 マクスウェルの「NOW」を聞く。

雨が止まないのでハナの夕方の散歩は中止。

pm6:30 夕食。バナナとおにぎり。

pm8:30 雨が止まない。


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