| 2006年08月26日(土) |
「気晴らしの発見」山村修 を読んで。 |
「エッセイ(物語)」は、「私」が不眠症になってしまうところから始まる。 それがどれほど苦しいかは、読んでいるうちにたぶん誰もが渋面になり、辛くなってくるであろうと思われるほどである。
「私」は様々な手を打ち、原因を探り、打開を図る。原因はストレスではないかとほぼ確信しつつ「私」は心療内科で診察を受ける。するとやはりストレスが原因である、と。 そして同時にストレスによりコレステロールが増大していることを知る。それが高脂血症を招いていることも。
ここからが「私」らしいのだが、「心因性」というものに対して根源的な不信感をもっているとしか思えない「私」は、「コレステロール」という「とっかかり」を得て、次のような戦略をとる。
…いっそのことその因果のつながりを逆転してみたらどうだろうか。コレステロールの量を低減すれば、ストレスの状態をゆるめることになる、と。 ストレスのような「心」のことがらに「心」をもって決着をつけようとしても、それは至難の技である。暖簾を腕で押すよりもなお、つかみどころがない。そう思えばこそ、これまで私はストレスに対して手をこまねいているばかりであったのだ。「心」のことがらは、いっそ「物」で対処してみてはどうか。コレステロールという「物」を逆手にとってみてはどうか。…(第二章より)
そこから単純に「癒し」という言葉・概念に走らないこと。そしてそれをを追求しないところがぼくは好きだ。そうではなくて「気晴らし」の演習が始まるのだった。気を晴らすのだ 。
子細はここには書かないけれど、頭脳にはイッセー尾形の笑いを浴びせ、その他、基本的には身体から解そうとする戦略である。そのメソッドが綿々とつづられていく。 そんな中から「私」は「私」なりの青空を発見する。自分が青空を「みる」ことでほぐれていく実感を手ににしたのだ。この「みる」は「観る」と表記したい。つまりイメージするのだ。 「私」にとって好もしい「青空」のシチュエイションが延々と箇条書きで列挙される。立派な観想以外のなにものでもない。この箇条書きは圧巻である。
そうして演習の最終局面で「私」はイッセー尾形と一人芝居をともに作り上げてきた、演出家森田雄三さんのワークショップに参加「してしまう」。これが強力な「もみ玉」となる。 この章はドキュメントとしておもしろいし、ぼく自身、大変参考になるる内容が詰まっていた。さまざまなメソッドを消化しながら最後は参加者全員が小説を書くのだ。 「私」はワークショップでさんざん揺さぶりをかけられる。そして次の言葉に行き着く。
…これまで私は、何をやっても、いわば自分に向かって、ただ独り言を口ごもっていたに過ぎないのだ。(中略) ワークショップに出ることは、自分の外に出ることだった。その体験が、めぐりめぐって私の病んだ部分に効いているのだ。(中略) 言葉こそ、心のもみ玉。大切なのは言葉だ。(中略) 言葉は人の頭の中にあるのではない。体の外へ出て、人が耳で聴いて、目で見て、それではじめて言葉になるのだ。そして言葉がめぐりめぐって身体をほぐすのだ…
…気晴らしは笑いだ。うらうらとしたうれしい心のさざ波だ。そのさざ波は、おそらく「言葉」 が起こす。…
一種のカタストロフィーが起きている。筆者は一言も書いていないけれど「鬱病」からの生還にとてもよく似ている。 (W・スタイロン「見える暗闇」・新潮社のなかで述べられている不眠とそれに続く意識しなければ一歩も動けない状況、そしてブラームスの「アルト狂詩曲」によって突然、心がよみがえったという記述の周辺はこの「気晴らし〜」を読んでいる間ずっとオーバーラップしてきた)
ストレスを抱え込むタイプの人は、いる。無縁の人も、いるようだ。 抱え込むタイプの人は「私」のように、粘り強く意識し続けねばならない宿命がある。 何をなすべきかの一挙手一投足まで、気を晴らさねば動けないのだ。
ストレスに麻痺して身動きがとれない。午前一時に目が醒めたらもう眠れない。そんな人に一読を勧めたい。 この本にある明晰さへの意志。おあつらえの価値観や方法論への無自覚なよりかかりを排除する意志。自前の「青空」を見つけようとする意志。じっと自分自身を見つめる眼。 それらはきっと参考になるだろうし、生きていくヒントをはらんでいるように思えるからだ。
そして当然のことながらストレスに意識的である人でなければ「痛み」は理解できないという感想を持ったことも付け加えておきたい。
●「気晴らしの発見」・山村修著・新潮文庫
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