今日は11月30日。明日からもう12月である。 したがって、今年もあと残すところ一ヶ月となった。
さて今日は、大正生まれの音楽好きな方とお話した。 なんと81歳だそうである。
私のCDを聴いて気に入り、私の歌を聴きにわざわざいらしたそうで、 本当に有り難いことである。
何かに興味を持ち、思いたって行動に移すというのは、 年齢に関係なく、なかなか出来ない事である。 性格もあると思うが、81歳にして、実に行動派である。
ご本人はシャンソンがお好きだそうで、 日本中のシャンソンのお店を歩いたとおっしゃっていた。 なるほど、彼なら、やってそうである。
私には、何でも好きな曲を、とおっしゃる。 声が好きなので、どんな曲でもいい、ともおっしゃる。
うーん、こういう人こそ、難しい。
何故かというと、こういう方は、耳で音を聴く。 音楽を聴く時、大方の人は、目と心で「曲」を聴く事が多い。 物心ついて80年近く、音楽を聴き続けている訳だから、 大概の曲はすでに聴いてしまっている。 彼の今までの人生で、一体どのくらいの音楽を聴いてきた事だろう。 ふと、彼の中の長い歳月の間に積み上げられた想像もつかない音の記憶の数々には、 一体、どんなものが蓄積されているのかと、思いを馳せた。
2002年11月29日(金) |
普通に存在するということ。。 |
今日は結婚記念日で、よくよく数えてみると、結婚して何と二十年経った。
いやはや、月日の経つのは早いものではあるが、 その二十年の間には、実家の父が倒れて逝去したり、娘が病気になったりと、 結構色々とあり、普通に家族が揃っているのが一番良いとつくづく思う。
さて、今日いらした方で、数年前、勤めていたところが破綻し、 その当日の朝、TVのニュースを見て初めてわかったそうで、 本当にとてもショックだったというお話を聞いた。
ある一つの出来事で、人の心がいかに深い傷を負うかというのは、 なかなか誰にも予測のつかない事ではあるが、 その当事者になって見なければわからない事は、世の中に無数にあると思う。
まるで映画やテレビの中のような出来事が、 何の前触れもなく、突如として自分の身に降りかかるというのは、 カフカの小説のように、それこそ超現実的で、不条理で、悪夢である。
これが夢であればいい、朝が来たら目覚めないか。 または、どうにかして、何事もなかった頃に時間を戻せないか。 当事者になった時、人はそう願うが、残酷にもそれは現実であり、 目覚めた後であり、時間は誰にも戻せない。
「審判」の主人公のように、いわれのない罪で、ある日突然連行されるのと、 その悪夢のような当事者になることは、その不条理な感覚には何の変わりもないと思う。
「何故?」と思っても、理由なんかないのである。 厳しい現実を突きつけられるだけなのである。
とても深い心の傷を癒すには、 非常に長い時間の流れや周囲の暖かい愛情が必要であったりする。
いかに、普通に存在することが難しいか。 だが、その普通というのは曲者で、 実は、これこれこうで、という定義は、世の中のどこにもないのである。
今日は、雨が降って、そのうち雪になるかと思いきや、 雹や霙が降って、また雨に逆戻り。 深夜はまるで、雪解け時期の3月のような天候であった。
こういう時、何を着ようか迷うが、一番困るのは靴である。
雪が降ると思って、冬靴を履くと、雨が降る。 滑り止めの強力な冬用のゴム底だと、路面によっては、つまづきそうになる。 非常に困る。
だが夏靴を履いて、雪が降り、路面がブラックアイスバーンなどになっていたら、 それはまた、本当に悲劇である。
ある冬の時期に、 アイスバーンの横断歩道を這って(!)渡っている人を見た事があり、 はたで見ていても、本当に気の毒だった事があるが、 その話をしたら、他にもそういう人を見かけた事がある人がいて、 いやはや、似たようなことをする人がいるものだと思って変に感心した。
だが、後でよくよく考えてみたら、その這って横断していた人たちは、 もしかしたら、どちらも夏靴だったか、 それでなければ、何か滑りやすい靴だったのではないかと危惧している。
交換し遅れた車のタイヤみたいなものである。
まぁ、備えあれば憂いなしで、雨の日に冬靴を履いてしまうくらいが、 ちょうどいいのかも知れない。
今日、移転したコムサカフェに行ってみた。
コムサカフェは、今回コムサのビルのようになった丸井南館(前BIGOFF)の中に出来た。 買い物の途中の女性や、仕事帰りの女性などで連日賑わっており、 なかなか入るタイミングを失っていたが、今日は街なかの人出も少なく、 もしかして今日こそ大丈夫かなと思って行ったら、大当り。余裕で座れた。
前の店の時から、ケーキやタルト類がフレッシュでボリュームもあり、 よくテイクアウトしていたので、そこが閉店した時はショックだったが、 移転で本当に良かった。
ケーキはまたまたパワーアップしており、どれにしようかすこぶる迷う。 紫いものクリームタルトや、ベリー類がたっぷりとのったパイ、 いちごのモンブラン、ムースやクリームがふわふわのパイ。 色や形を見ているだけでも楽しい。 フルーツをかなり多く使っており、ボリュームはあっても、 ヘルシーでローカロリーなイメージである。
食後なので、デザート感覚のフルーツフリュイにしてみた。 林檎、ルビー&ホワイトグレープフルーツ、生のブルーベリー、マンゴー、 マスクメロン、赤肉メロンなどが、一口大にカットされて、 マスカルポーネで和えてある。
ベリーミルクティーが、どうやらクリスマスドリンクらしく、頼んでみたら、 意外とあっさりしていて、ほんのりとベリーの香りで飲みやすかった。
かなり落とした照明、モダンな椅子。 ケーキ類もドリンクも女性好みで、ファンが増えそうである。
(なにより、禁煙なのが、吸わないわたしにはとても良い。)
2002年11月26日(火) |
日本の男の人の魅力。。 |
今日は中村嘉人氏の文学講座の日で、題材は池波正太郎の梅安の第一巻「殺しの四人」であった。
梅安シリーズは、氏によると、 池波さんの作品の中でも一番、女性に人気があるらしい。 食の描写や、あの三寸針(釘ではない)による鮮やかな殺しのテクニック、 色気の部分など、その小説の魅力はたくさんあると思うが、 講座を受けている内に、ふと男の人の魅力って何だろうと思った。
非常に私好みの話で申し訳ないが、 雷蔵の現代物の映画で、「ある殺し屋」というのがある。 雷蔵の演じる、温和で実直なタイプの小料理屋の主人は、 実は陰の殺し屋で、畳針で誰にも気付かれずに見事な殺しをする。
私には、どうもこれが梅安と重なり、 いくら池波さんが、梅安を大男のように書いていても、 本を読んでいく内に、雷蔵が演じる梅安になってしまう。
雷蔵は、眠狂四郎だけを見ると、あまりわからないが、 人の光と影、表と裏を演じ分ける事がとても多かった。
幸せな殿様だったのが、陰謀でどん底まで落ち、 妻や片腕までなくしてしまう浪人になったり、 武家の養子だったのが、あることでつまづき、 愛する人と別れ、無宿人になったり。 だが、どんなにみじめで落ちてしまっても、 地べたに這いずり回ってでも、命がけで最後には敵を討つ。
梅安の、浅蜊と千六本の小鍋仕立などを作って、茶碗の冷酒をすする姿と、 殺しをやっている時の姿は、相反しており、文字通り、人の表と裏である。 それは、偽善者の裏表などと云うのとは全く違う、 非常にバランスのとれた、人の表と裏である。
女性ファンが多いという原因はその辺じゃないだろうか。
表面は柔らかく見えるが、決めるところでは決める。 口ばかり強がって詰めの甘い人よりも、普段は物静かで、 棋士のようにここで詰むと思ったら、そこは逃さず決断し、一気に勝ちにでる。 だが、本当に勝敗がつくまでは平静を保ち、謙虚に平常心で勝負する。 勝ったからと言って、別段自慢しない。 負けた相手のことも思いやる。 柳のような柔軟なバランス感。
それが、日本の男の人の魅力なんじゃないだろうか。
2002年11月25日(月) |
ゼネラル・レクラークと富有柿。。 |
今日は、久々、気温が高く雨模様である。
さて、ゼネラル・レクラークという洋梨を初めて食べた。
見た目は千両梨ほどの大きさで、色合いはラ・フランスやブランデーに似ている。 貼ってあったラベルの説明によると、1950年に、パリ近郊で発見されたらしい。 なんだか、そのエピソードが少しだけミステリアスな感じのする梨である。
皮を剥くと、とろりとした果肉の表面が表れて、 甘くなんともいえない芳醇な香りが広がる。
食べてみると、ラ・フランスよりも糖度が高く、舌触りが非常にきめ細かい。 緻密な果肉なのに、噛むと果汁がうわぁっと口中に広がって、意外な食感である。
レクラークを食べた後に、ラ・フランスを食べると、 さっぱりした感じがするくらいである。
本州から送られてきた富有柿は、ぱりっとしているが、甘くて美味しい。 今が食べ時である。 白和えや膾(なます)、サラダにもとてもよく合う、癖の少ない柿である。
フルーツ皿に、ゼネラル・レクラークと富有柿を切ってのせ、 それぞれに味わうと、収穫の季節の醍醐味を感じる。
フランス原産の梨と、アジアな柿の取り合わせだが、 同じ皿の上で、二人はとても仲の良い古い友人のように、 寄り添って澄ましているのである。
2002年11月24日(日) |
ちょっとだけ音楽の話。。 |
今月も最終週になり、今日は11月最後の日曜日である。 深夜、ふと思いたって、自分のコンサートの音源などを聴き返している。
今年は録音をやって、弾き語りのCDをリリースしたいなぁと思っていたが、 場所や楽器の都合で、現在も録音に入れないでいる。 CDが出来たら、次はコンサート、と自分の中では予定があったが、 予定通りに行かないのが人生である。
まぁ、それも致し方ないし、神様がくれた時間だと思って過ごしているが、 随分と、この一年間、色々充電も出来たように思う。
スティングは「音楽は仕事だとは思っていない。楽しんでやりたいんだ」と、 「オール・ディス・タイム」のDVDの中で言っているが、 とかく音楽を仕事にしている者は、そういう感覚を忘れがちになる。
聴いて下さっている方々に拍手を頂いて、 「すごく良かったです!」という言葉を頂くと、はっとさせられる。 聴いている方々は、仕事で聴いている訳ではないのである。 自ら楽しむ為に聴いているのである。
さて、果たして、来年は録音が出来れば色々と忙しくなるとは思うが、 自分で楽しめるものを、やはりやりたいと思う。
笑ってる鬼もたまには見たい。
2002年11月23日(土) |
勤労感謝の日とボージョレーヌーヴォー。。 |
今日は、なんの祭日かと思ったら、勤労感謝の日であった。
よく、自分のご褒美に、などど安易なCMにありそうだが、 勤労のご褒美に、あまり買わないボージョレーヌーヴォーを買った。
元々、ボージョレーそのものを飲まない人が、 わざわざヌーヴォーを好んで買う訳がないのである。 だが、勤労感謝の日なので、買ってみた。
確かにフルーティーなのだが、どうも深みもコクもないのが新酒である。 フルボディ好みなもので、味がどうしても物足りなく感じて、あまり買わない。
これを普通の赤ワインだと思って飲んで、 「赤ワインてあまり美味しくない」と思っちゃう人は、 結構、多いのではないかと、ついつい危惧してしまう。
さて、今年のお味はいかにと思って飲んだら、 香りも高く、コクはないがベリー系の味もして、新酒というものを楽しめた。
だがやっぱり、何日か前に購入した、99年のロス・バスコスの方が美味しい。
ワインて面白い、と思う部分である。
今日は、明日ラジオで特集する越智順子さんの、新しいアルバムを聴きながら書いている。
札幌は冷え込んでおり、深夜は外を歩いているだけで、頭痛がしてくる。 ロシアの人のあの帽子がちょっと欲しくなるくらい、 頭が締め付けられるような寒さである。
こういう寒さの時に、バタっと、路上で人が倒れるのを見た事がある。 転んだのではない。真っ直ぐにそのまま、ぶっ倒れたのである。
じきに、救急車が到着したが、 誰も見ていないところだったら、と思うとぞっとする。 多分、脳の活動が、何かの拍子で停止したのかとも思うが、 低い気温は血管も収縮させるし、恐いものである。
さて、若くして、宮様が他界された。 47歳。 早すぎると思う。 スカッシュのウォーミングアップ中だったそうだが、 心臓の病気も、普段はどこかに潜んでいて、本当に侮れない。
私は今回、心室細動、という言葉を初めて聞いた。 心電図のグラフがTVのニュースに出ていたが、 心臓の鼓動が、一分間に300回以上ピークがあり、凄まじい。
以前に、前兆のようなものはなかったのだろうかとは思うが、 今となっては、ご冥福を祈るばかりである。
さて、今日はボージョレーの新酒の解禁日だそうだが、 家には、昨日購入したチリワインがまだ残っているので、 それを飲みながら書いている。
赤ワインは身体が温まるので、寒い夜にはとても良い。 今日は昼からマイナス気温で冷え込み、雪もかなり積もり、 帰宅の頃には、また真っ白な街になっていた。
今年は、季節が巡るのが早かった。 こちらの日記にも書いたりしたが、春蝉を見たのもかなり早い時期だったと思う。 春が早く来るのは、なんだか心浮き立つものである。 長い冬の後に、梅や桜がほころぶのを見るのは、気持ちまでほころぶ。
まさか、冬までは早く来るなどとは、誰も思わない。 だが、この天候である。
誰かが、季節の時計の針を進ませているのかと思う程である。
エンデの「モモ」には時間泥棒が出てくるが、子供の頃読んだロシアの童話で、 「ビーチャと時計どろぼう」というお話があった。 時計を盗まれてしまったがために、ビーチャの村は新年を迎えられない。 ビーチャは懸命に時計どろぼうを追いかけて、時計を取り戻す。 ビーチャの村は楽しい新年を迎える事ができてめでたし、というお話である。 子供心に、新年のないのは確かにつまんない、と思ったものである。
さて、札幌の冬の時計は、どんどんと進む一方であるが、 地上の人間たちの時計は、いつもと同じように刻み続けている。
ふと、このままずっと、季節の時計と、人間の時計がズレ続けるとしたなら、 世界は一体どうなる事だろう、と思う。
ビーチャは、季節の時計に合わせた、正しい人間の時計を取り戻してくれるのだろうか。
さて、風邪もだいぶ抜けて、風邪薬を飲まなくなったので、 今日は、久々にワインを少し飲んだ。
深夜のコンビニはとても便利で、気に入っているチリワインがあるし、 洋梨のラ・フランスと生ハムも買った。
チリワインは何年か前からファンになったロス・バスコスである。 価格もリーズナブル(千円台から。)で、味は濃厚なフランスワインに近い。 ロス・バスコスは、フランスのシャトーのラフィットロートシルト所有の、 チリの葡萄畑で作られている。
久し振りで飲むので、今日は99年のグランドレゼルヴを選んだが、 それでもギリギリ千円台なのである。
チリワインを飲む前は、フランスワインやイタリアのワインを飲んでいたが、 コストパフォーマンスを考えると、同じ価格なら、 チリワインの方が、味は格段上のものが飲めるので、かなりお得である。
さて、ワインを開けて、ラ・フランスと生ハムのオードブルを作ったが、 山形産のラ・フランスが香りも高く、至極美味しい。 一緒に頂くと、生ハムが負けてしまう。
これぐらい良い洋梨なら、ロックフォールやゴルゴンゾーラが合うのに、と思う。 明日探そうか、とも思う。
だが、まだ起きていた下の娘は「梨だけの方が美味しい。」と言って、 ラ・フランスをむいたのを幾つかつまんでから、歯を磨いて寝床についた。
仕事から帰ってTVをつけたら、片山右京のナビビア紀行をやっていた。
アフリカの種々様々な生き物たち。 カメレオン、犀(サイ)、チーター。 広大な大地。 砂漠。サバンナ。 照りつける太陽。
赤い土の道にも、強い陽射しが照りつけ、空には透き通るような真っ青な青空。
さながら、写実主義の絵のような美しい砂漠。
いま外では寒い風が吹き、冷え込んでいるが、画面の中は灼熱のアフリカである。
そこには、誰の物でもない果てない大地に、 動物たちがたくさん生息しているが、自由な反面、自然は厳しい。
こんなに素晴らしい自然の大地を訪問するために、 自然の中では生息できない人間たちには、自動車が欠かせない。
頑丈そうな車の横を、チーターは、横目ですうっと涼しげに走り去った。 これがアフリカなのだなぁ、と思った。
今日は、仕事の合間にCDショップに寄り、二枚だけ購入。 ラジオの特集で使おうと思っている。
さて、家の玄関前のもう使わなくなった犬小屋に、最近住んでいる者がいる。 この寒空の下に追い出す訳にも行かないので、困惑している。
彼らの優しい飼い主は、最近、急に亡くなった。
住む人のいない大きな屋敷は閉鎖された。
彼らが行き場を失っているのは、誰のせいでもない。
人や生き物に寿命があるのは仕方のないことである。
ちょうどこの季節で、段々と気温は下がっていくし、 彼らはかなりの複数で、家に入れる訳にも行かない。
彼らはたまに、屋敷の縁の下には様子を見に行っているようである。
だが、いつまで経っても、そこの屋敷がまた彼らのために門を開く事はない。
一見、ほんの小さな出来事のように思えるが、だがどうしようもない悲劇である。
今日は、娘とデパートの中華街展に行って来た。
休日は色んなところへと出かけたいが、 中国茶の専門店が来ているので、今日はそちらにした。
中国茶のお店は品数もある程度は持ってきているので、非常に迷う。 凍頂烏龍茶だけでも、等級がたくさんあり、 これには迷ったが、色んなお茶をたくさん買うよりも、 今、飲みたいものだけを100g購入した。 あまりに迷う時には、これが一番いい。
ずっと欲しかった中国茶用の砂時計(一分、三分、五分と、一個で三種計れる)、 中華料理店の焼売、ふかふれ餃子、小龍包、えび蒸し餃子などの冷食と、 ドライフルーツ、中華菓子などを購入。
その後、エスタ地下の中国茶のお店「茶譜」で、一休みして帰って来た。
夕食に点心を蒸して食べたが、中華街のものはやはり美味しい。 苦心して選んだ凍頂烏龍茶もとても良い香りで、大満足な中華な休日であった。
今日も冷え込んだ。 昨日ほどではないが、帰りの外気温は0度。 ちょっと風が吹いていたので、寒く感じられた。
さて、前は発芽玄米を食べていたのを、 風邪のお陰で、お腹の方もなんだか調子が悪かったので、 消化の良さそうな黒米や時代飯を、土鍋で炊いて食べている。
黒米は、炊き上がりがまるでもち米のようで、 弾力性があって、味もこくがある。 一度、つぶしておはぎのように小豆餡をかけて食べたら、美味しいので驚いた。 TVで見たが、どこかで黒米の大福も売っているらしい。 なるほど、と思った。 ちゃんと商品化できる味である。
時代飯は、いわゆる五穀米のようなもので、 麦やあわ、蕎麦の実、こきび、胡麻をお米に混ぜて炊く。 蕎麦の実やあわが、ぷちぷちとして甘味もあり美味しい。 まだ試してはいないが、多分、山芋のとろろが合いそうな感じである。
この時代飯というのは、和食よりも、意外と洋食やアジアン料理に合う。 一度スープカリーで食べたら、クスクスのような感じで、これがとても美味しい。
少しずつ、このご飯のせいか否か、体調が良くなってきているが、 この寒さで、また違う風邪を引きそうなので、要注意なのである。
さて、どんどん札幌は真冬に向かっている。 車の外気温度計はマイナス3℃まで下がり、本格的な冬である
帰宅して、ストーブの温度を高めにする。 冷えた身体には、暖かい空気が一番である。 こうして暖まりながら、ストーブの中の青い炎を見ていると、、 自然の恩寵によって、人は暮らしていけるのだなぁとつくづく思う。
さて、明日特集するイリアーヌの新譜を聴きながら書いているが、 彼女はブラジルのサンパウロ出身のピアノ&ヴォーカルで、 この寒い冬の時期に、嘘かと思われるかも知れないが、なんとぴったしはまる。
暖炉のような自然な暖かさや、 春の昼下がりの陽射しのような柔らかな暖かな音である。
彼女は、ブラジルを飛び出て、パリで演奏生活をした折に、 エディ・ゴメスと知り合い、jazzをやるならアメリカに行くべきと言われて、 アメリカでメジャーデビューした人である。
パリの冬もかなり寒いのだろうか。 先日BSで見た、ゲンズブールとバーキンの映画がちょっと浮かんだ。
今日は、雪がずっと降り続いていた。 街はどこも真っ白で、12月のような風景である。
札幌に、日米野球で来ているボンズが、 「札幌はいい街だね。雪も大好きだしね」と言うような意味の事を言っていた。 アメリカ人も、クリスマス&年末気分になる雪は好きなんだなぁと思うが、 そういってもらえる事は、何だか嬉しい。
札幌で、冬季オリンピックが開催される事が決まった当時、 各国の多くの人達は、アジアに、それも日本に雪の降る街が存在する事を、 全く知らなかった為、かなり驚いたそうである。 雪が降るような、国際的な北の街というのは、 文化水準の高い国にしか存在しない、というのが定説らしい。
さて、文化水準が高いかどうかは、まず置いておくとして、 確かに札幌は、雪の降る北の街として存在しているのである。
景気がずっと低迷している札幌だが、 最近は、本州の企業も次々と進出してきていて、希望はないわけではない。 少しでも回復の「兆し」が、見えてくれると良いなぁと思う。
大体、あの蒸し暑い首都で、あんな大勢の人達が、空気が悪いと言いつつ、 電車に押し込まれ、鬩ぎあって生きて行くのが当り前だと思っている国に、 本当の良い未来はあるのだろうか。
江戸の頃は、高層ビルも身体に悪い空気もなかったはずである。 北の地に、こんなに過ごしやすい土地がまだまだいっぱいあると言うのに。
多様な可能性が、札幌には充分に残されていると思うのである。
深夜、雪がしんしんと降り、積雪した。
今日は、かれこれ20年振りにお会いする方が、旭川からいらっしゃった。 20年前にjazz喫茶で一緒に働いていた方である。 わざわざ、綺麗なお花まで持ってきて頂いて、嬉しい限りである。
実は、お店のお客さんつながりで、今日の再会が実現したので、 人生、どこからどう、人と人とが繋がっていくのかは、 人の出会いと共に、本当に不思議なものである。 このサイトの事を、その間にいらっしゃる方のお陰で知ったそうで、 何度か見てくださってるとの事、またまた嬉しい。
20年間、それぞれの違う時間を、それぞれに送っていても、 音楽という一つの価値観は、あまり変わっていないように思う。 その方が、どんな傾向の音楽が好きだったかは、 なかなか思い出せなかったが、話している内に、少しずつ、思い出す事ができた。
だが、今こうして書いていたら、一つ忘れていた事を思い出した。 その頃、好きなピアニストの話が出た時に、その方が言っていた名前である。
確か、レッド・ガーランド。
だったと思う。 私よりは年上だが、年代は変わらないのに、随分と渋い。 とその時に思ったのを憶えている。
たくさんお話したくても、時間が許せず、誠に残念であったが、 また、何年か後にでも、日々精進し、互いに健康でまたお会い出来れば、と思う。
20年も前の誕生日にもお花を頂いた事があり、今日のお花と共に本当に大感謝であった。
2002年11月12日(火) |
「剣客商売」に思う。。 |
今日は、中村嘉人氏の講座「時代小説の世界」を受講。
今回の題材は「剣客商売」である。 池波文学を読み解く三つの鍵(キー)のお話、 「剣客商売」の魅力などについて、とても興味深いお話をたくさん伺えた。 ノートをそのままここに書くわけにもいかないので、 ご興味のある方は、中村氏の著作「池波正太郎。男の世界」を、読んで頂きたいと思う。
さて、「剣客商売」の魅力とは何か。 美しく風情のある江戸を舞台に、 コントラストの効いた存在感のある人物設定や、テンポの良いストーリー。 魅力は、小説の隅々にまで、煌びやかに散らばる星のように無数にある。 それぞれの読み手が、それぞれに様々な魅力を発見しているに違いない。
池波さんは、お散歩するのが好きだったらしいが、 江戸切り絵図を片手に、ふらりと散歩しているように見せかけて、 ある時は、息子大治郎を心配する小兵衛になっていたり、 又、あるいは聞き込みをしている弥七になったりと、 結構、歩きながら、小説の一場面が浮かんだりなどは、あったかも知れない。
主人公の秋山小兵衛は風呂もたくし、料理もする。 二度目の40才年下の若い妻にも、まめに接する。 それを読んでいると、私は、妻に先立たれた明治生まれの祖父を思い出す。 彼は、孫の為に台所に立ち、朝からコーヒーやトーストを用意し、 やはり、小兵衛のように薪を割り、何時間もかけて風呂の準備をする。 小兵衛のモデル、三井老人が明治生まれであったなら、 家の祖父と、価値観はかなり近いものがあったかも知れない。
剣客を読んで、ふと思った事である。
今日は、nanaさんから、お坊さんの精進料理カレンダー、 wakaさんから、受講できなかった先々週分の、 「時代小説の世界:鬼平犯科帳」の講義の録音テープを頂いた。 非常に有り難い。 ゆっくりと聴いて、後日感想を述べたいと思う。
頂いた精進料理カレンダーは手書き風で、 蕪蒸しや和え物などのレシピが月毎に載っている。 和食が好きな私には堪えられない。
一時期、料理本に凝った時期があって、色々と買いあさった。 今では、飽和状態になっている本棚を、 これ以上増やしたくないので、少し控えている。
柴田書店などから出ている、グラビアも多い和食の料理本は、 本の高さや厚みもあるので、非常に場所をとる。 本屋さんで、パラリとめくっては我慢である。
料理本では、渋い色使いの料理の辻留、 料理語りの本では「吉兆味ばなし」が好きである。
辻留も吉兆もいつ行けるものか。 もしかしたら、一生行けないかも知れない名店なので、 料理の写真や、出汁のとり方などのお話を読むだけでも興味深い。 鯛の裁き方や、料理方法なども、これらの本に習ったようなものである。
さて、明日の講座は楽しみにしていた「剣客商売」であり、 「剣客商売包丁ごよみ」も合わせて、ちょいとこれから予習である。
昨夜遅くからの雪で、札幌は真っ白な朝を迎えた。
身も心も引き締まるような、 冬の匂いのする懐かしい冷えた空気が、そこいら中に満ち溢れている。
お茶を習っている上の娘は、 今日の炉開き(冬用の炉のお披露目の日)で、初めての亭主をする。 緊張した面持ちで出掛けて行ったが、さて巧くいったのだろうか。
彼女の炉開きが終わったら、一緒に出かけるつもりで、 家で皆、それぞれいろんな事をやっている。 主人はいよいよタイヤを冬用に替えた。
そんなところに、まとめて頼んであった年賀状用の葉書が届いた。 まぎれもなく、冬の始めである。
12月に年末の準備や用意を始める「事始め」という日があるが、 それに先駆けて、冬の事始めとは、このような日ではないだろうか。
上の娘の炉開きが終わり、待ち合わせをして、ファクトリーに行った。 すごい人出でなんだろうと思ったら、 アトリウムの巨大なツリーを見にきてるらしい。 毎日、一定の時間にライトの点灯があり、時間前から人垣が出来るそうである。
さて、アトリウムで食事をし、 本屋などに寄って帰宅してのお茶の時間に、 炉開きのおみやげのお菓子を皆で頂いた。
松ぼっくりや、松葉、銀杏などを模したお干菓子を見ていると、 なるほど、冬もいよいよ始まったのだなぁという感がした。
さて、いよいよ札幌は冬モードに入った。 雪がちらつくのも当たり前な感じである。
今日のラジオのテーマは「冬支度」。 リスナーさんたちの、様々な「冬支度」が寄せられた。
気温が寒いだけだと、衣食住の内、 「衣」や「住」の、ほんの一部分を強化するだけだが、 それに降雪が加わると、それだけでは間に合わなくなる。
まず、車のタイヤを替えなくてはならない。 庭の冬囲いや、植物の鉢上げ。 自転車を物置に閉まったりと、忙しい限りである。
今日寄せられた中で、そうそうそれもある、と思ったのが、 子供たちのスキーの用意や、塾の冬期講習代の捻出など、 子を持つ親というのは、本当に色々とたいへんである。
新しいコートを買おうと思っていても、 子供の方についついお金がかかってしまい、 自分の物はなかなか買えないお母さん方は多いに違いない。
さて、ラジオからの帰り道の車の中で、何かの事件だろうか、 山肌で現場検証をしているところに出くわし、思わずギョッとしたが、 年末にかけては心身ともに健康で、何事もなく、過ごしたいものである。
深夜、帰宅してBSをつけたら、 リヒテルのシューベルトコンサートの模様が映しだされた。
私は子供の頃、リヒテルのレコードをよく聴いていた。
はず、なのである。 神経質そうな、リヒテルの顔のジャケットを今でも憶えているが、 はてさて、何の曲を聴いていたものか、すっかり忘れてしまっている。
何枚かのリヒテルのピアノソロのレコードの、 どれを聴いていたのかを忘却している。 幼稚園か小学生の頃である。
TVのリヒテルは、すっかり高齢の大先生になっているが、 音の響きやタッチは、力強くて重く、ある時は軽くて繊細だが、深い。
これはヨーロッパの音だなぁ、と思う。
深い森や、大きな美しい噴水のある、たくさんの薔薇が満開の庭園のある古い城。 日傘をさした女性や、白いセーラーを着た、頬がばら色の子供たち。
リヒテルの音を聴いていると、ヘッセやトーマス・マンの世界になってしまう。
残響音も何だか良いなぁと思ったら、会場には日本人はいない。 日本のホールではないらしい。 拍手まで重く響いて、良い音に聴こえる。 字幕によると、ホールはイギリスのサフォークにある、 スネイプ・モルディングス・ホールだそうである。
アンコールが終わっても鳴り止まぬ拍手の中、 シューベルトの多分年代物であろう筈の、すっかり茶色になった譜面を、 先生は大事そうに抱きかかえて深くお辞儀をし、コンサートは終わった。
映像は1977年の録画映像であった。
今日は、思いがけず、良い出会い(音楽関係の方)があって、とても愉しかった。 こういう、たくさんの方々と出会える仕事をしていて、本当に良かったと思う。
人前に出る仕事というのは、自分の体調や精神状態によっては、 たいへん気重に感じることもあるが、その代わり、得る事も非常に多い。
毎日、たくさんの方々と出会い、お話しする。 価値観の合う人、合わない人。 ウマの合う人、合わない人。 だが、時によって、それまでは価値観が違うと感じていた人が、 よくよくお話を聞いていると、実は同じ趣味だったりする事もあり、 合う、合わないは、一概には言えない。
たった一つの、何かのキーワードが引き出された途端、 堰を切ったように、どんどんと会話が弾む場合もある。
一応、私は音楽関係の仕事をしているので、音楽そのものがキーワードの場合も多い。
それは、ある時は「曲」であったり、またある時は「音」であったり、 また時には、「声」そのものであったり、まれに「コードワーク」だったりする。 音楽を聴いた時の反応は、人によって様々である。
色んな反応や、ご感想を頂く。嬉しい限りである。 それがまた、次の演奏や活動への原動力になるものである。
今日は、ある一人の方の純真さや音楽への姿勢、 アメリカでの音楽生活のお話などを伺えて、非常に貴重な出会いであった。
今日、帰宅してBSをつけたら、フランスの映画をやっていた。 ミュージカルっぽくて、なんだか面白い映画である。
さて、大分前にラジオのフランス語講座を一生懸命やっていた時期があり、 一年間分のテキストとテープが家の本棚にある。 全然、物にはなっていないが、フランス語は好きである。
フランス語は、あのリズムや発音が粋である。 フランス語を話す人は、声まで良く感じる。 喉の奥で発音する言葉があるからかも知れない。
さて、映画を見ていてもそうだが、フランス人はどんなお店に入るのでも、 必ず「ボンジュール」と言いながら入っていく。 いいなぁ、と思う。
それで思い出したが、私が子供の頃、所謂、昭和の頃は、 商店に入る時、大人も子供も、ガラガラっと戸を開け、 「ごめんください」と言ってから、お店に入って行ったような気がする。 今から考えると、良い時代だったなぁ、と思う。
今でも、知己の人のお店には、「こんにちは」と言って入るが、 その他は、あまり挨拶をしていないかもしれない。
一度、フランスで「ボンジュール」と言って、お店に入って行きたいものである。
今日は時折、雨に霙(みぞれ)が混じって降っていた。
温度が上がったり下がったりと、非常に不安定な時期である。 私はやっと風邪がぬけつつあるが、体調を崩している人もたくさんいらっしゃる。
これから年末に向けて、無理をせずに、年を越せればなぁと思う。
年末というのは、色々な事件が起こるものだが、 大体、一年一年に区切りをつけて、 年末に総決算を、と考えるのは、日本人の特性らしい。
時間というのは、方丈記にもあるように、 「行く川の流れは絶えずして」で、留まる事を知らない。 常に流れているのである。 そういうものに区切りをつけて、 人々の感情に総決算を求めても、土台無理な話である。
それで悲しむ人も多いのではないだろうか。
年末だから、と無理をして、いい結果を出そうと思っても、 もう遅いという場合もあり、それなら一年どう過ごしたのか。
出来る事なら、どんな時でも平常心で、 日頃から、精進して、生きていたいものである。
昨日の深夜遅く(と言うより今朝)、 あまりに寒いので、薄野にあるサウナに行った。
知らぬ間に改装していて、すっかり名前も変わっていたが、 中の方は、そう大して変わってはいなかった。 ただ、前はプールを営業していたのが、すでになくなっていた。
ここは一応、温泉も出ている。
最初は、銭湯のような気分で入り始めるのだが、 露天風呂に行くと、都会の中の温泉という感じがして、好きである。
ガラスのドアを開けると、冷たい外気がすうっと入り込む。 急いで、檜の大きな浴槽に入る。
湯に暖まり、少し落ち着いてからふと見上げると、 コンクリートの高い壁に囲まれた、夜明け前の空が見える。 そこから、コンクリートの向う側の、車の音や人の声が聴こえてくる。 近くの焼肉店の匂いまで流れてくる。
私は、その瞬間が好きである。
さて、その露天風呂の底に、今回、白い石が敷き詰められていた。 歩くと、足の裏になんともいえない刺激があって、良いものである。
寒い冬の初め、珍しく三時間もそこのサウナにいたのであった。
さて暦によると、今日は文化の日だそうである。
娘たちが、新しい冬の服を見に行きたいというので、 家としては珍しく、昼過ぎから、中心街のデパートに出掛けた。
ジャイアンツの優勝セールや、西武の感謝セール、 ファッションビルのバーゲンなどのお陰で、街はえらい人出である。
冬服や、冬用の靴などの買い物をして、三人共疲れたので、 丸井の地下にある、浅草梅園でお茶した。
久し振りに、梅園の粟(あわ)ぜんざいを食べた。 これを食べると、体調が良くなるのだが、なかなか食べに行けないので、 機会があるときには、必ずこれを注文する。
粟(あわ)は、以前実家でセキセイインコを飼っていた時に、 大活躍していた雑穀である。 幼鳥を育てる時に、お湯をかけたのをやると、とても喜んで食べる。 黄色の小さな粒で、甘い香りがする。
その粟を柔らかく炊いて、少しだけつぶしたものに、 たっぷりと、漉し餡の暖かいのがかけてある。 それを箸ですくって食べる。
粟の匂いを嗅ぐと、白い小さなインコの事を思い出した。 なにやら独り言を言いながら、粟を食べる幼鳥であった。
お茶した後、夕食の材料などを購入して、帰途についた。
上の娘は「笑点」のファンで、家に着くともうテレビの前である。
いたって、普通の日曜日のような文化の日なのであった。
2002年11月02日(土) |
遅鍋(おそなべ)。。 |
今夜も冷える。 帰宅途中、車に付いている外気の温度計は、3℃であった。
寒い時は、鍋焼きうどんである。
大分前のことになるが、鍋焼きうどんを売り物にしている蕎麦屋があった。 今はもう、そこには違う業種の食べ物屋が建っている。
寒い冬のある日、仕事上がりに、その蕎麦屋に鍋焼きを食べに行った。 伊達巻のような感触の卵色の蒲鉾(オランダ焼)の薄切り、 大きな日の出蒲鉾、筍、極上の海老天が入っていて、とても美味しかった。
食べ終わった頃に、着物のお姐さん方が入ってきて、 「鍋焼き二つ。一つは遅鍋にして。」と言った。
一瞬、「遅鍋」の意味がわからなかったが、 多分、長めにたっぷりと火を通してくれ、という意味かとも思う。 気になって、色んな人に訊いてみたが、未だその本当の意味はわからずにいる。
今夜は、自分で多分これか、と解釈している「遅鍋」にしてみた。 うどんと餅、かき揚や葱を仕込んだ土鍋を、一度煮立ったら、 弱火で、ゆっくりぐつぐつと煮る。 最後に卵を落としいれて、ちょっとだけ火を通して、出来上がり。
うどんや餅、かき揚が、つゆをすっかり吸って、柔らかい。 鍋肌にうどんが焦げてくっついたのを、蓮華ではがしながら食べると、香ばしい。 半熟の卵をかき混ぜると、さながら、うどんのおじやのようである。
さて、「遅鍋」の本当の意味はわからずにいても、 この鍋焼きは、寒い夜に身体も気持ちも温まって、かなりいけたのであった。
今日は深夜、ちらほらと小雪が風にまぎれて降っていた。 今、明日ラジオで特集するレベッカ・バッケンを聴きながら書いている。
私は作詞というものをほとんどしないが、 この季節、ふと、詩が浮かんできそうな気分になるものである。 そんな時に、暖かいカフェのガラス越しのカウンターにでも座って、 外の風景でも見ながら、白いノートを前に詩作すれば、 本当は、何かできるのかも知れない。
だが、私は仕事中である。
深夜の街に、降ってはすぐに消えてしまう雪が風に舞っている。 人々は、寒そうに襟を立てて、足早に過ぎ去る。 すでにシャッターが閉まったデパートにクリスマスの電飾が煌煌とついている。 その隣には映画「マイノリティ・リポート」の大きな宣伝看板も設置されている。
そういう中を、仕事の為に歩き続ける。
春の突然の雨の中を歩いた道も、この寒空の小雪模様の道も、 間違いなく同じ道筋を歩いているはずが、 季節が変わるだけで、全く違った道のように感じる。 そういう時、感覚の中だけで詩作している事がある。
だが、どんな言葉を頭の中で詩作したのかは、 記憶のない夢と同じで、全く思い出せない。
一時期、エリュアールのような詩が書きたいと願ったことがある。 だが、感覚の中だけの詩人は夢の中だけの成功者のように、 現実の中では、いつまでも実現しないのかも知れない。
「学校の日の机の上に。」である。
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