窓のそと(Diary by 久野那美)
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前回の日記を読んだ出演者の片桐慎和子さんが言ってました。
役者にとって重要なことは、積み上げていくことではなく、稽古のたびに、本番のたびに、毎回一から積み直すことなんじゃないかと思う。 だから、日記を読んで嬉しかったと。
別のひとから、あんなことを書いたら役者が傷つくのではないか? と言われていたので、でも、そんなことはないはずと思っていたので、ほっとしました。だって私も嬉しかったから。
自分のやっていることに慣れることがいちばん怖い。と彼女はよく言います。同じことを続けて繰り返し稽古したくないと言いますし、効果音も、可能なら稽古のたびに違うのをかけてほしいと言ったりします。
場合によりますが、それでもいいかと私も思います。 「いまやっていることがリアルであるか(説得力があるか)」に常に敏感に反応する役者さんと一緒にやっていると最悪の事態には陥らない、という安心感があります。 カナリアみたいなものでしょうか。
「今日は、おしまいにしてもらってもいいでしょうか?」と言ってサクっと帰っていっても、毎回、次の稽古までに彼女は必ずなんとかしてきます。必ずしも良くなるとは限りませんが、でも、前回までは誰も知らなかったようなことを稽古場に持ち込みます。これはかなり感動的です。いや、私が感動しててはいけないのかもしれませんが、スリリングで刺激的です。毎回毎回、それまで考えてもみなかったことを考える稽古は、終わるとどどおっと疲れてぐったりします。楽しい疲労です。
そして、実際には、「積み上げない」というのは彼女なりの表現であって、案外、習得した結果は着々と彼女の中に積み上がっているのだことも最近わかってきました。大変誤解を招きやすい彼女の主張は、より厳密に言うと、
「積み上げたを言い訳にして、常にリアリティ(説得力)を検証し続けるべき役者の責任を放棄しない。」
ということかと思います。言い方を替えただけで、わがままでマイペースな役者が、謙虚で堅実な役者のようになってしまいました。こういうときは、よいほうに解釈しましょう。
稽古というのは何をすることなのか? 私は肝心なことをこれまでわかっていなかったかもしれません。 何かと考えさせられる稽古場です
公演まであと1か月。
だけど。
ぜんぶ、いちからやり直すかもしれない。 いや、やり直すことになる。
今日の稽古はこれまでにもまして、破壊的な稽古だった。 これまでつみあげてきたものが全部木っ端みじんになる稽古だった。 稽古するたび、確実だったものが壊れていくということをここ数回繰り返しているんだけど、それにしても今日のはすごい。
えええええええっ?そういうのってありなん?
誰も思いつかなかった方向へ、お芝居が向かっていた。 最初のシーンから稽古始めたのだけど、唖然として見ていたら最後までいってしまった。終わって、ふたりとも、 「・・・・・・・・・・・」 となった。
「・・・・・・誰なん?そのひと?」 と役者に聞いてしまった。
舞台の上に、きのうまでいなかったひとがいた。 きのうまで稽古してたことが何も身についてないひとがいた。
でも、そういう「ひと」だった。衝撃だった。 そういうひとも、いるかもしれないじゃないか。 と思った。私の知らないひとだったのに。
知らない人が現れた代わりに、舞台の上には、役者も台詞もなくなっていた。そのひとが話していた。 チャーミングだなひとだった。 このひとにもう一度会いたいと思った。
しかし。
それは可能なのか?
いったい何をしたのか?と役者に尋ねても、 はっきりしたことはわからなかった。 でも、彼女はなんとなく、何かを知っている気がした。 でも、公演までにそれを確認することは可能なのか?
誰にもわからない。
もうちょっとで完成するところだったのに・・・・。 あれを、どうすればいいの?
でも。魅力的なひとだったのだ。 あのひとにもう一度会いたい。 と私たちはふたりともきっと思っている。
そして公演まであと1か月ある。
あ〜あ。どうしよう。
こういうのは、きっと、とっても贅沢な悩みなんだろうと思う。
楽しいし。
2011年10月26日(水) |
道の階オリジナルチラシを作ってみました。 |
こんな感じ↓ でも、どこで配るんだ??
2011年10月25日(火) |
11月29・30日 CTT大阪第11回試演会チラシ |
こんな感じです。 自分の掲示板になぜか入れないのでこちらにアップします。 アクセス禁止されてるのか? 誰に???
このところ、(私が)アウェイへ出かけていく理由がわかった。 練習しようとしていたのだ。
練習を重ねれば上達するか? するのか?
「それは、満月の夜のことでした」は、素舞台で地明りのみの舞台です。それがCTTの決まりだからです。
多少の照明を工夫したり音響効果を加えたりすることはできますが、現実的に、役者1名、スタッフ1名の所帯なので、ほとんど何もできないに等しい状況です。(一般的にはそうとも限りません。スタッフによってできることの範囲は激しく異なります。けれど、今回その1名が私なのです。)
最初はいろいろ考えてることがあったのですが、じゃあ誰がやるんだ?じゃあ誰がわかるんだ?となると、話はだんだん現実味を失くしていくのでした。これは、これまでの公演も同様でしたが、そのときは、そういうときこそ力を発揮するその他のスタッフがいました。今更ながら、彼ら彼女らの存在の大きさを痛感し、感謝しています。
ト書きには、例によって好き放題書いてあります。
このままではどうなるんだ?どうするんだ?と思い、 思い切って、役者さんに聞いてみました。 こんなこと聞いていいのかどうかわからなくて、少し小さな声になってしまいました。
「舞台にはあなたしかいないので、舞台上のあなたに○○○するための方法は、あなたに○○○するか、あなたが○○○されるかしかありません。あなたに○○○するには知識とか技術とか機材が必要です。それらを調達するのが難しい場合、逆に、あなたの方で○○○されてみる、ということは可能でしょうか?」
役者さんはぱちぱちと瞬きして、「わかりませんけど、やってみます。」と言いました。
やります、ということではなく、やれる方法を考えてみます、という意味だと思います。
感動しました。
それができれば、こんな便利なことはありません。 いえ、こんなクリエイティブなことはありません。
いいえ、これほど「演劇的」なことはないのではないでしょうか。
そういえば、今回、片桐さんは、一度も、「それは無理です。」と言われません。「・・・・・・・・、やってみます。」と言う言葉は、・・・・・・・の時間がどれだけ長くても、やはりものすごく心強いものです。
そういうわけで、今日の稽古はこれまでとはずいぶん違うものになりました。驚いたことに、効果のことだけではなくて全体の雰囲気が激変しました。ストーリーさえ変わったかもしれません。
「○○○されている」役者を見ていると、彼女がその次に言う台詞や、する動作の理由が見ていてとてもよくわかるのです。 「なるほど。ここでこうされたからこう言ったんだな。」ということがわかるのです。本人に聞いてみても、「、ね〜。そうだったんですね〜」と腑に落ちた返事が返ってきました。
(余談ですが、片桐さんは、腑に落ちると、よく、「、ね〜。」と言います。)
こんなに何かと良いことがあるのなら、その上知識や技術や機材の不足を補うことができるならば、このまま、どこまで行けるかわかりませんが、やれるところまで、腹をくくってやってみようと思いました。
幸い、まだ1カ月あります。 1カ月は、あてもなく知識や技術や機材を探すには短いですが、すでに進んでいる稽古の場で試行錯誤するにはそう悲観的な時間でもありません。
私にできることは何なのか、まだわかりませんが、とにかく、役者さんを励ましたり力づけたり信じたりしようと思います。
小さいなと思う。自分は。 どうしようもなく、小さい。 考えないようにしてるけど、とにかく小さい。 小さすぎる。つまりちっとも大きくない。
考えないようにするのはやめて、大きさについて考えてみた。 大きさについて考えると深刻な気持ちになる。 きっと、 自分が絶対に太刀打ちできないものが何なのかわかるから。 何を得られずに生きてきたのかわかるような気がするから。 そしてそれはおそらく挽回不可能だから。
いちにち、そういうことをぼんやり考えていた。 自省的な日記を書こうと思ってPCに向かった。
書き始めてふと思った。 大きいのも力だけど強いのも力だな。
強くないかどうかまだわからない。 とにかく、遠くまで行ったら勝ちなのだ。 まだ時間がある。
強度を上げてみよう。
・・・・・・・・・・さて、どうやって?
そろそろ、避けては通れなくなってきたので、 腹を決めてラストの稽古をしました。
戯曲では、 誰も口に出して言えないことは全部ト書きに書かれることになります。 というか、セリフ以外のものを全部ト書きと呼ぶわけです。
セリフで動かない話はト書きしか書くところがないし、 口に出して言えることばっかりでもないと思っているので、 私の台本はト書きがたいへん、多いです。 最後4ページは、半分くらいト書きかもしれません。
誰が言ってるのかわからないセリフもト書きに書きます。 稽古してるうちに誰がいったのかわかってくればセリフに昇格したりします。しないときもあります。 誰も困らないのでいいのです。
「ト書きの意味が分かっていない」と、 昔何度か叱られたことがありますが、 未だにどうしても納得がいかなくて、好きなように書くことにしました。
登場人物が誰も口に出して言わないことを、みなさんいったいどうやって表現してるんでしょう。謎です。
ト書きと、ひとり台詞が半分ずつ、くらいのシーンの稽古を何度か繰り返してしました。 出演者の片桐慎和子さんは、セリフのない場面のお芝居がとても素敵な 役者さんなので、発見がいろいろあって面白かったです。
一人芝居だし、舞台の上にあるものをもっともっと大事にしなくちゃね。 とふたりで話し合いました。
しばらく、ラストシーンの稽古の日々になりそうです。
来月公演があるので、お芝居の稽古をしています。 そろそろチラシの文句を作ったり、確認したり、といった作業も始まり、どっぷりと「それは、満月の夜のことでした」の世界の中にいます。もう、楽しくて仕方がないです。
最近、出かけることが多くなりました。
いつもは見ないようなお芝居を見に行ってみたり、知り合いがほとんどいない集まりに行ってみたり、人の日記のコメント欄にコメントどころか自分の日記を書いてみたりしています。(これは迷惑ですね。ごめんなさい。) 自分でもよくわからないのですが、こうやって、バランスをとってような気がします。(なんのだろう?)。自分が「部外者」である時間が必要な気がして。(なんのために?)。
意識してやってるはずなのに、ときどき、ばりーん、とさびしい気持ちになります。この寂しさは、なんだか今、自分にとても必要なものな気がするのです。忘れないように、ちゃんと時々思い出すように、出かけるのかもしれません。伸ばしたり縮めたり。心のストレッチ?をしてるのかもしれません。 書いててもなんだかよくわかりません。変ですかね?
と、書いてて今思ったんですが、
「その場所を私のように見ているのは私ひとりかもしれない。」 ということを意識していたいからかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よけい淋しいな。
最近なんだか毎日ばたばたしていて、 頭の中がドラム式の洗濯機のようになっている。 (でも何もきれいにならない。むしろ散らかる一方。)
何にも考えない時間がほしくて、突然思い立ってひとりで温泉に行ってみた。バスを2つ乗り継いだところにスーパー銭湯仕立ての天然温泉があるのだ。小さな露天風呂につかってぼおおおおおおっと空を見る。 電線にすずめが1列に並んでいる。 今日はすずめは見ないようにしようと決めて反対側を向く。 すずめは疲れるから。 小さい岩の間からお湯が落ちてくるのをぼんやりと眺め、 ぬるめのお湯に溶けそうになりながら、じいっと、ただ、じいっと座っていた。静かで、とてもよい具合。
考えない。何も。お湯のこと以外は。
そうしていると、 不思議なことに、涙があふれてきた。 なるほど、これで頭の中のもの、洗い流すのか。
じゃぶじゃぶじゃぶ。
何も、考えずに、考えずに、じゃぶじゃぶしていた。 もちろん、静かに。音をたてるこなく。
温泉のいいところは、その程度では誰も、「どうしたんですか?!」 と聞いてきたりしないことだ。
お湯から出ると、またバスを乗り継いで帰ってきた。 家についたら夜だった。
夜、帰ってからお風呂に入らなくていい、というのは すごく得した気分だった。
すっごく休日っぽい過ごし方をまたひとつみつけた。
女優さんは、稽古がはじまって半ばを過ぎると、 見違えるようにきれいなる、気がする。 いや、もともときれいなんだけど、なんというか・・・顔が違う。
前からうすうすそうなんじゃないかと思っていたのだけど、 今日はかなり確信をもったので、思い切って質問してみた。
「痩せたり太ったりしました?」 「いえ。あんまり。少し太りつつあるかもしれませんけど。」 ・・・・そうなのか。質問を変えてみる。
「なんだか顔が立体的になったというか、目が鋭くなったというか、表情が柔らかくなったというか・・・何かしてます?」
「え?そうですか?いえ別に。」
「最近、最初の頃と顔が違うような気がするんです。」
それにはなんと、彼女は普通に返答した。
「たしかに、出てるお芝居によって顔ってかわりますもんね。」
そ、そうなのか・・・・。軽く衝撃を受けた。 どんな顔になるのか。楽しみが増えた。
何かしてます?って稽古してるからかな? 演出してても変わらないかな? ちょっとだけ、ひそかに期待してみる。
2011年10月14日(金) |
「台詞を言いたい。」 |
「お芝居の、何がしたいの?」と質問したら、「台詞を言いたい。」といった人がいた。役者として舞台に立ちたいという意味だろうか?
でも、「台詞を言いたい」と「舞台に立ちたい。」ではニュアンスがずいぶん違う。そもそも、主語も述語も全然違う。
私は、「舞台に立ちたい」とか「台詞を言いたい」とか考えたことがないので、そういう希望を聞くととても気になる。
台詞を言いたいって、どういう欲求何なんだろう。 演劇というのはやはり、台詞なのか??
台詞って「言う」ものだったんだと改めて思う。
台詞について、なんやかんやと考える日々が続いている。
2011年10月11日(火) |
C.T.T.大阪事務局試演会 vol.11 |
道の階が参加するCTTの11月の告知がネットにあがりました。
http://cttosk.blogspot.com/
お時間のあります方、ぜひ見に来ていただけますと幸いです。
2011年10月10日(月) |
台本に書かれてないこと。 |
稽古が始まってから1カ月たち、物語の世界にもけっこう馴染んできた私たちは、新たな壁にぶつかっていた。
もはや真実は文字でしかない台本を離れ、目の前で動いてしゃべる役者の一挙手一投足の中に埋まっているのだ。台本の一字一句を文字通り過信することはできない。さて、どうする?
気づけば、どこにも書かれていない真実を、演出家と役者は共有しはじめていた。 「・・・・と書いてあるけど実は・・・・だよね。」「このひとがやたらと・・・・を繰り返すのは・・・・・・じゃないからに違いない」「この・・・・って、・・・・・・のことだとしか思えないよね」「このひと、・・・・であることをわかってるはず」etc・・・。
二人しかいない現場で二人が信じていることに勝る真実があるだろうか。
演出家と役者が台本を踏み越えてがんがん進んでいく。 それは芝居の稽古の醍醐味で、とてもわくわくする場面だ。 一方、作家がひとり孤独をかみしめる場でもある。 演出家と役者が新しい真実を掘り起こせば掘り起こすほど、作家は孤独に取り残される。作家は台本の世界より外に出ることはできないから。 これは、戯曲が芝居になる過程で避けられないことであり、とても幸せなことなのだ。
のだけれど、ここで問題なのは、今回、作家と演出家が同一人物だということだ。「役者と一緒に未知の領域へ踏み込む冒険」と「孤独に取り残されること」を同時に経験しなくてはいけない。これはとても切ない。それ以前に、論理的に変だし、気持ちの動きが複雑すぎて自分でも何を感じてるのかわからなくなる。
「・・・台本に書かれてないことを要求して申し訳ないんだけど。」 「たしかに台本にはどこにも書かれてないけど。」 「・・・台本を読んでいてもわからないことなんだけど。」 「台本には・・・って書いてあるけど、ごめん、文字通り信用しないで。」
発見するたびに卑屈に言い訳するようになってしまった。 これはこれでどうかと自分でも思う。
やがて、煮え切らない演出家が面倒になってきたのか、役者は 「台本に書かれてないことをそんなに気にしなくてもいいんじゃないでしょうか。」と言いはじめた。
返す言葉もなかった。
さらに、 「たしかに台本にはかいてないかもしれませんけど、でも、私は書いてあるような気がしますよ。」 とも。
壁にぶつかってるのは私だけなのだった。 稽古は順調に進んでいる。進んでるのだと思う。 きっと。
2011年10月04日(火) |
続・セキレイさんのこと。そしてヒヨのこと。 |
すみません。 稽古場日記と関係ないのですが、これも途中なので。 「2011年5月11日-セキレイさんのこと」の続きです。
*********
セキレイさんが帰ってきた。
やってきたのではなく帰ってきたのだと思っていたので、そのよそよそしい態度に戸惑ってしまった。
セキレイさんは完全に最初からやりなおしたのだ。
少しずつ、少しずつ、また1か月かけてベランダに馴染んでいった。 長い脚で、びくびくしながらぎこちなく歩き、長いしっぽをせわしなく上下に動かし、ときどき何かにひゃっと驚いて飛び上がった。そして、そのまま一目散に空の向こうへ退場していくのだった。毎日、それを繰り返しながら、少しずつ、馴染んでいった。
不思議なことに、見ている私も、最初からやり直すことになった。すずめたちのようにかわいらしいしぐさもしないし、始終落ち着きがないし、動きにもストーリー性がないというか、感情が読みとれないというか、なんというか、とにかく意味がわからない。毎日見ていてもなんだか距離が縮まらない気がして、疲れる。パステル画の中に一か所だけ水墨画のパートがあり、しかもそれは落ち着きなく動くのだ。
すずめたちのパンくずを取るな!と腹が立ったりもした。 彼らが来るとベランダの雰囲気にまとまりがなくなる。 人間だけでなく鳥の目から見ても彼らの動きは読めないようで、すずめたちもしばしばびっくりしてペースを乱すのだ。 なんて空気の読めない鳥なんだと憤ったりもした。
「だけどいい奴じゃん」と思ったあれはいったい何だったんだ?と自分でも納得いかない。「・・・・と思ったけどやっぱり嫌なやつだったのだ。物語は最後まで見届けないと、途中でやめては本質を見失う。」と思ったりした。イチローだって云っている。シーズンの途中で打率云々いっても意味がないと。
やっぱりイライラするのだった。なんだか腹が立つのだった。要するにそういう鳥だったのだ。
けれども、そこはまだ終わりじゃなかった。 あたたかくなるまで見届けているうちに、またしても、セキレイさんを待つことは私の日課になってしまった。「今日もセキレイサンが来ている」かどうかが重要なことになってしまった。そしてセキレイサンは重要なことに毎日来た。そしてベランダやすずめたちにふつうに馴染んでいった。
きっとセキレイさんは何も変わらなかったのだと思う。来た時も、そのあとも、いなくなってからも。私のほうが変わったのだ。人間は環境にすぐ影響される。毎日見てるものはなんとなく大切になっていくのだ。そしてそれは人間のいいところだと思う。 私はまた、覚悟しなければいけなかった。環境が変わる日のことを。
今度はせつなくてさびしかった。たぶん、セキレイサンがいなくなる日が来ることを、私はもう知ってしまったから。知らないことは起こらない。知るのは起こってしまったあとだから。すでに知ってしまったことは起こるのだ。
けれども。セキレイさんの退場は、私が思っていたものとは全く違っていた。同じように繰り返すのは季節だけだった。いや、季節だって、きっと少しずつ違っていたのだろう。
ある日、セキレイさんよりひとまわり大きな渋いデザインの鳥が手摺に止まった。角度によって、りりしくも見え、バカっぽくも見える鳥だった。 大げさな模様と、それが判別できないほどの地味な色合いのせいだろうか。 冠のようにも見えるし、寝ぐせのようにも見える、頭のうえのふわふわのせいだろうか。 落ち着きのないセキレイさんとは対照的に、ものすごくふてぶてしい感じの鳥だった。はとより少し小さいその鳥は、わがもの顔に手摺に止まると、「キーキー」ととんでもない音を出して鳴いた。セキレイサンを無視していたすずめたちは、その鳥が来ると、なんだか居心地悪そうにうろうろして、場合によっては退場してしまった。
気持ちはわかる。私も退場したくなった。 それが、ヒヨドリとの出会いだった。
写真を撮ろうとカメラを向けるとカメラ目線でポーズをとる。 しかも、背景に鉢植えの入る撮影ポイントで振り返るのだ。 「さあ。私をお撮りなさい。」と言って(言ってないけど)。
すずめたちにパンを投げてやると、蹴散らすようにやってきて横取りする。 自分の4分の1ほどの小さい鳥をキッとつついて「キーキー」鳴くのだ。
迷惑なので、帰ってもらおうと音をたててベランダのサッシを開けても、平気でこっちを見ている。逃げていくのはすずめたちとセキレイさん。 ヒヨドリは逃げないばかりか手摺の上からふわりとベランダに降りたって丸い目でこっちを見ている。 「パンはもうありませんよ。今度は何をくれるのですか?」 という顔でこっちをじっと見ている。 ヒヨドリはものすごいポジティブシンキングの鳥だった。 私がすることはすべて、自分のためにしてくれるのだと思っているようだった。
すずめたちをいじめるしキーキーうるさいので、思いきって氷を投げてみた。 当たらないように外して投げたのだけど、なんと、わざわざ追いかけていって食べてしまった。「コントロールが悪いのです。仕方がないからとりにいきます。」と言って(言ってない)。 氷では攻撃にならない。 次の作戦として、水鉄砲を買ってきた。子供むけのものではあるけれど、飛距離のちょっと長めの、タンクに水をためておけるタイプのものだ。 かわいそうかなと思ったけど、情をかけてはあとでややこしいことになると思い、思いきって発砲してみた。今度は狙いを定めて。
無力だった。ヒヨはひょいっとよけて、丸い目で得意げにこっちを見ていた。スポーツかなにかと思っているようだった。
こうしてヒヨドリとの戦いの日々が始まった。これは、セキレイさんの物語には予定されていない章だった。ヒヨドリはヒヨドリさんではなく、「ヒヨ」になった。理由はわからない。なんとなく。 ヒヨとの戦いは、永遠に続くかのように思われた。私は毎日氷を投げ、毎日水鉄砲の水を補充した。
セキレイさんと違って、ヒヨは集団でやってきた。 ハトより少し小さい鳥がベランダの手すりに8羽も並ぶのは、どう見ても異様な光景だった。ホラー映画のようだった。怖がるか笑うしかなかった。 でも実際は怒った。
私は見てしまったのだ。鉢植えのネメシアの花をむしゃむしゃ食べているところを。長いくちばしでくくっとついばんで上をむいて喉の奥に長しこむ。丸い目を細めてむしゃむしゃむしゃと咀嚼する。
・・・・・・・花を・・・・!! ・・・・・・食べるなんて・・・。
そういえば、つぼみはできるのにちっとも花が咲かないと思っていた。 お前だったのか。 ヒヨが来てから、ベランダが地味になってしまった。 寒くなって外にえさがないのか、とにかく、片っぱしから花を食べているようだった。正確にいうと、花のつぼみを。1つずつむしゃむしゃむしゃと本当に幸せそうに食べた。ヒヨは偉そうにしてるか幸せそうにしてるかどちらかなのだった。
ベランダにはミニバラしか咲かなくなった。さすがにとげのあるバラだけは食べられなかったから。 いちごもやられた。むしゃむしゃたべているところを見つけて「あ。」と叫んだら振り向いた。振り向いて咀嚼していた。ぱんぱんと手をたたいたら、めんどくさそうに重い腰を上げた。すごく不愉快な気分になった。
このままでは、ベランダがヒヨに侵略されてしまう。 すずめたちに対しても申し訳がたたない。すずめたちは自分より2回りも大きくて空気が読めないどころが好きなように書き直していくヒヨたちに困惑して距離をはかっている様子だった。
一方、セキレイさんははっきりとヒヨを疎んじていた。彼らは静かに、自分のペースで、思う存分落ち着きなく歩き回りたかったのだ。 邪魔されるのは嫌なのだ。 セキレイサンはとてもドライだ。どうしても許せないものが現れたら何も言わずすぐにさくっとそこから退去するのだ。 (寒くなることも許せないのかもしれない)
こうして。 ヒヨの登場により、セキレイさんは去年よりずっとずっと早く、去年よりももっと何の余韻も残さずにいなくなってしまった。あっけない終わりだった。正確には終わったのかどうかさえ、誰にもわかっていない。でも、セキレイサンはもう来ないのではないだろうかと誰もが思った。
セキレイさんが退場してしまってからも、ヒヨ軍団はやってきた。彼らにはセキレイさんがいなくなったことや、そのために私たちがなんだか妙な具合に寂しい思いをしていることなど全く興味がないようだった。
ではいったい、彼らは何に興味があるのか???? 事態は新しい局面を迎えることになった。
ここからしばらくは、ヒヨとの闘いがベランダのメインテーマになる。 <もう少しつづく。>
2011年10月02日(日) |
階のこと。道のこと。 |
今回の上演団体名は「道の階」といいます。
私はお芝居の題名をつけるのがものすごく苦手なのですが、毎回プロデュース形式で公演をするので、題名以外にもうひとつ名前を考えなくてはなりません。これまで、箱の階、とか、船の階、とか、山羊の階、とかいった集団でお芝居をやってきました。階というのは、流行りの言葉で言えば、「カンパニー」とかに似てるのかなと思います。要するに上演団体のことです。私のPCは、「かい」と入力すると最初に「階」と変換されます。階の前につくのは、そのお芝居の中でわりと重要なポジションにあるものの名前です。 別に、上演団体に階をつけなくてはいけないという決まりはありませんし、実際階のついている上演団体はあまり見かけません。そのときの気分でいろいろつけると覚えられなくなりそうですので、私はそういう決まりにしているのです。今回は道の階。舞台が道の上なのです。
CTT大阪の11月の試演会に参加します。 CTTというのは、上演にまつわる負担を極限まで軽減することで役者が数多く舞台経験を積むことができるように、という趣旨で作られたシステムで、それ故素舞台、地明りを基本としています。素舞台というのは、舞台の上にセットがなにもない状態でお芝居をすること、地明りというのは、舞台と役者が見えるように照らす最低限の照明設備のことです。 つまり、舞台の上に役者たちだけがいる、という状態での公演です。
そして今回、私たちのお芝居は人間の出演者がひとりだけの、俗に言うひとり芝居、ですので、舞台の上には最初から最後まで、出演者の片桐慎和子さんがいるだけということになります。 帰り道の途中でのお話ですので、あまり違和感はありません。
今日は「それは、満月のよるのことでした」の6回目の稽古の日でした。 最初から途中まで何回か返して稽古していて、わたしは初めて、このお芝居に実際に「道」という台詞が何度も出てくることに気づきました。気づいたときは、「おおっ。」と思いました。さすが、道の階。あらためて、この舞台が道の上であることを、確認しました。そして、思っていた以上に道の物語であったのだということを。
「ここが道の途中であることを意識しましょう。」
と、演出家として役者さんに言ってみました。
「それは、ここから先にも後にも続いてるということですか?」
と役者さんが聞きました。
「・・・そういうことかもしれないけど、・・・つまり、この物語は面じゃなくて線だっていうことです。」
と私は答えました。 全然つまりじゃないような気もしましたが、わりと的確なことを言ったような気もしました。役者さんはいつものように「ふうん。」という顔をしていました。
「線なのだ。」と思うと、俄然、楽しくなってきました。
今日はほかにも、「1回1回、会話のたびに言葉がふっとんで頭の中が真っ白になる」という稽古をしました。そのせいか、片桐さんはしゃべるたび台詞をとばしたり間違えたり入れ違ったりして混乱していました。 このままでは、稽古するほどに台詞が不正確になっていくということになりますので、むずかしいところです。
また、「反応の読めない相手とちゃんと会話する」練習をしました。稽古場には役者さんのほかには私しかいないので、私がパーカーを頭からかぶって相手役をしました。パーカーをかぶると台本が見えなくてメモもとれないことに、かぶってから気づきました。なんだか孤独な稽古でした。
いろんなことを試行錯誤しながらこれから2か月、試していこうと思います。稽古の状況には何の不満もありませんが、二人きりの稽古場はほんとうにさびしいです。 こんな稽古場に興味のある方がおられたら、ぜひ遊びに来てください。
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