にっき日和
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同僚のMは、よくため息をつく。
彼女は不幸なオンナだからだ。
自分で言うのだから、たしかに不幸なのだろう。
彼女を不幸にしている理由は、
離婚した。
子供をダンナにとられた。
貧乏。
もう、若くない。
彼女は毎日のように、
「なぜわたしだけが・・・・・」とか、「老後が心配」とか、
口癖のように繰り返し、くら〜〜〜いため息をつく。
そして、自分の不遇は社会が悪いのだと怒りを洩らしている。
けれど、彼女の幸福基準にあてはめれば、
わたしは、さらに不幸な女ということになる。
だって、わたしはまだ一度も結婚してないし、
同じ職場で安い給料で働いているのだから、貧乏度は彼女と双璧。
歳だって、彼女と二つしか離れていないのだ。
しかも、わたしには彼女のような美貌もない・・・・ ( ̄ェ ̄;)
彼女は、他人と自分を比較するのが癖なのかもしれない。
他人が持っていて自分に足りないもの・・・・
いちいちそれらを見つけ出しては、また深いため息をつくのだ。
そのくせ、不遇を打破する努力もしていないようだが。
信じられないことに・・・・
彼女からしてみれば、
このわたしでさえ嫉みの対象になっているらしい。
両親が健在。
実家でのん気に暮らしている。
雑草のように元気。
・・・・・そんな些細なことすら、理由になるらしいのだ(爆)
たしかに、わたしは自分を特別不幸な人間だとは思っていない。
けれど、日々幸せをかみ締めて生きているわけでもない。
要は、気の持ちようだと思うのです。
雑草には雑草なりに、悩みも苦労もあるのだ。( ̄ω ̄;)
老後の心配だって、まるでないわけじゃないのよ。
ただ計画性がないので、
先のことは考えていなかったりするだけ・・・(爆)
彼女に限らず、“自称苦労人”という人種には、
わたしのようなお気楽な人は、
いらただしい存在に映るようです。
彼女は他の同僚がいるときには、決して愚痴をもらさない。
○○ちゃんだから愚痴も言えるのよ、と言うので、
わたしも適当に相槌を打ちながら、聞いてあげている。
ふと思ったのだが・・・・
彼女は単に愚痴を聞いてもらう相手が欲しかったのではなく、
いっしょに身の不幸を嘆く仲間が欲しいのだろうか??
(; ̄ー ̄A アセアセ
「なぜ私だけが・・・・」
彼女のため息は、うっとうしい。
わたしの気分まで重苦しくさせる。
不幸って・・・・・・伝染るのかもしれない。
C= ( ̄- ̄;;) ハー
秋の一日、美術館へ行ってまいりました。
だって、芸術の季節ですもんねぇ・・・・ε=( ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄〃)ほっ
目指したのは、山間の町に佇む、
「秋野不矩美術館」です。 http://www.shizuoka.com/hokuen/tenryu/
美術館は、小高い山の上に建っています。
駐車場から、しばらく山道を歩かなくてはなりません。
てくてくと道を登ると、どこからか笛の音が聞こえてきました。
そういえば、秋祭りがもうすぐです。
きっと、お囃子の練習でもしているのでしょう。
林の中に群れて咲くのは、燃えるような彼岸花です。
赤とんぼが、ついっとわたしたちを追い越しました。
そのとき、ちくんと痛みが走ったのです。
見ると、腕にヤブ蚊が止まっていました。
すぐさま叩き潰そうかと思いましたが、払いのけるに留めておきました。
この時期、殺生はやめておきましょう。
なぜなら、今日は彼岸の入り。
どこかの家族が帰ってきているのかもしれません。
昔、祖母がそんなふうに話していた記憶があります。
額にうっすら汗をかいて、やっと美術館にたどり着きます。
黄土色の土壁が、風変わりでいて素朴な風情の建物です。
インドを愛した画家と聞いていますので、
かの地の民家をイメージしたのでしょう。
作品も、自然から切り取ったかのような素朴な色使いが印象的です。
空の青、土の色・・・・そして、乾いた風の色まで感じられる気がします。
正直言って、特に好きな画家というわけではないのですが、
木造の日本建築には、こんな絵が合うんじゃないかなと思いました。
登って来た道をたらたら降りながら、
ふと、小腹が減ったことに気がつきました。
そういえば、この近くに美味しいラーメン屋さんがあったっけ。
醤油味のスープを想像したら、おなかの虫が鳴ってきました。
芸術もいいけど、やっぱり秋は食欲ですよねぇ・・・( ̄〜; ̄)
ふだん芸術には、とんと縁がないわたしですが、
秋の風に誘われて、
こんな一日を過ごすのも悪くないなぁと思いました。
夕方ひとりでお留守番をしていると、
我が家に来客がありました。
手に袋いっぱいの野菜を抱えています。
「うちで採れたんだけど、みんなで食べてね」
ありがとうございますとお礼を言いながら、わたしは考えました。
はて?だれだったっけ?? ??( ̄- ̄?)
自転車で来ているところを見ると、近所の人のようです。
なんとなく顔に見覚えがあるけど、どうしても思い出せません。
「お母さんによろしく言っておいてね。わたし・・・・わかるよね?」
「はい」
と、思わずお返事してしまったわたし。。。
ほどなく母が帰宅して、台所の野菜をみつけました。
誰にもらったのか尋ねられたけど、
自転車で来た太ったおばさんとしか答えられません。
「こどもの留守番じゃないんだよ!御礼を言わなきゃならないのに」
ごもっともです・・・・・・( ̄▼ ̄;)
さんざん母にどやされてしまいました。
ちょっと前に、携帯のCMでこんなものがあったっけ。
久しぶりに会う同級生が、親しげに声をかけてきます。
むこうは自分を知っているのに、自分は相手を思い出せない・・・・
このシチュエーションって、わたしには他人事ではないのです。
実はわたしって、人の顔を覚えるのがとっても苦手なの。
いままで勤めていたどの職場も、来客が少なかったけど、
たまにふらりとやってくるお客さんには戸惑ってしまいました。
なかには当然のような顔をして名乗らない人もいるので、
たいへん困るのです。
名刺の裏に、こっそり似顔絵を描いてみたこともありました。
(↑いちおう努力はしている)
その点、写真が印刷された名刺はとても助かります。
ついでに全員、名札をつけてもらいたいくらいです。
「どちらさまでしたっけ?」って聞きにくいんですよね。
初対面ならともかく、何度も会っているはずの相手だと、
ついつい知ったかぶりをしてしまうんです。
だっていまさら聞くのも失礼な気がするでしょ?
わたしのような人は、きっと客商売には不向きだろうと思います。
聞くところによると、韓国人は姓の数が非常に少ないそうです。
それって、同姓同名がゴロゴロしてるってことなのでしょうか??
あっちのキムさん、こっちのキムさん・・・・・
(T.T )( T.T) オロオロ
もしも・・・・
とってもひさしぶりに、あなたにお会いしたとします。
そのときなぜか、わたしが無口だったら、
無口なわたしを訝しく感じたら・・・・
きっとわたしは、
あ な た を 知 ら な い の で す 。
そんなときは、どうぞ速やかに名前を名乗ってください。
わたしは、途方に暮れています。 ( ̄∀ ̄;)汗
母と二人、久しぶりのドライブをいたしました。
萩の寺を訪れたのです。
森の石松で知られる、遠州森町の山あいの寺です。
正しい名前は、蓮花寺というのです。
萩は地味で控えめなお花です。
静かな風情が、初秋にぴったりですよね。
蓮花寺は、想像より小さなお寺でした。
まだ時期が早すぎたのか、
お目当ての萩は、ほとんど咲いていませんでした。
狭い境内は、わたしたちのほかに人影もなく、
ひっそりとした秋の午後を味わったのです。
駐車場に戻る途中、レトロな建物を見つけました。
森町民俗資料館。
もともと村役場だった昭和初期の建物を、
資料館として使用しているのでした。
なんだか昔の木造校舎のような造りです。
中に入ると、こじんまりとした館内に、
古びた、農具や生活の道具が並べられていました。
農具などは、説明を読まないと、
何に使うのかさっぱり見当がつきません。
けど母にしてみると、かなり懐かしい道具ばかりだったようで、
頼みもしないのに、張り切って説明をしていました(笑)
ふと、古い手鏡に目が留まりました。
曇った鏡面に自分の顔を映してみます。
いったい、どんな人が持ち主だったのでしょうね。
黒ずんだ生活道具は、すべて使い込んだ物ばかりでした。
昔の人は修理を繰り返しながら、
だいじにだいじに使っていたのでしょう。
母の子供時代といったら、たかだか半世紀前のことなのに、
日本人の生活も激変したものだなぁと思いました。
「今夜の晩ご飯どうする?」
母の希望で、帰路大手スーパーに立ち寄り、
買い物を済ませることにいたしました。
店内は、ちょうど夏物衣料最終バーゲンの真っ最中。
人々は、ワゴンの商品に群がっています。
拡声器から流れる店員の声。
売り場を駆け回る子供達・・・・
見慣れた光景のはずなのに、
売り場にあふれる物の洪水に、違和感をおぼえてしまいました。
道具としての寿命をまっとうできるのは、
この店内に、果たしていくつあるのでしょう。
わたしたちはふだん、無駄な買い物を重ねているのかもしれません。
本当に必要な物って、
実は、ほんのわずかな気がします。
道具は、ただそこにあるだけでは、ただの“物”なのです。
けれどそこに、
使い手の愛情や共に暮らした年月が加わって、
はじめて価値が生まれるのだと思います。
使い捨ての商品には、価値など在り得ません。
(ここで言う価値とは、 =金額に換算できること・・・ではありません。念のため)
物があって幸せ。
物がなくても幸せ。
自分が探すべき幸福は、いったいどっちなんだろう?
答えは・・・・・・・・・
この秋の宿題にしようと思います。
今年の秋は、父方の祖父の三十三回忌です。
祖父が亡くなったとき、わたしはまだ園児だったけど、
葬式の日のことは鮮明におぼえています。
可愛がってくれた祖父の死に顔、白木の棺、そして火葬場の臭いまで・・・
生まれて初めて接した“死”に、
幼いながら、強烈な印象を受けたのでした。
死を怖いと感じたのは、
たぶん、あの日が最初だったように思います。
祖父は、大きな、なつめの古木がある家に住んでいました。
わたしたちが祖父の家を訪ねると、
帰り際に、必ず門で見送ってくれたものでした。
車に向かって並んで手を振る、祖父、祖母、叔母。
けれど、あの日以来、
祖父の姿だけがそこから消えたのです。
そして、穏やかな笑顔で手を振る祖父の姿は、
もう二度と、見ることができませんでした。
わたしは生まれて初めて、
“死の喪失感”を味わったのです。
今年、うちの父は69歳です。
祖父が亡くなった歳も、69歳。
そして、あの頃わずか2歳で、
祖父の死が理解できなかった弟は、
今、祖父の亡くなった当時の、父の年齢と同い歳なのです。
父は、亡くなった祖父に、
面差しが誰よりも似ているそうです。
そしてまた弟は、そんな父にとてもよく似ています。
6人の孫たちの中でも、祖父は弟を特に可愛がっていました。
今考えるとその理由は、
父方の血を、より濃く受け継いでいることと、
無関係でないように思えます。
三十三回忌。
“弔い上げ”とも呼ぶそうです。
人は、死んで三十三年が過ぎると、
極楽往生できるとか、転生するとか・・・
どこかでそんな話を聞きました。
祖父の魂は、今どこに在るのでしょう。
そして、どこへ行くのでしょう。
思うに・・・・
人の一生は、案外短いものなのかもしれません。
自分たちが考えているより、ずっとずっと。
そう・・・きっと、
生きる意味など、考え付く間もないほどに。
人は誰でも、永遠には生きられないのです。
だから、子へ孫へと短い命を受け継いでいくのでしょう。
遺伝子に、ささやかな生の記憶を閉じ込めながら。
9月に入ったというのに、
今年はやけに残暑が厳しい気がします。
けれど、朝夕、頬を撫でる風は思いのほか冷たくて、
秋はここにあるよと、教えてくれます。
墓参りをしましょう。
すっかり足が遠のいていましたが、
優しかった祖父だもの、きっと許してくれるでしょう。
供えるお花は、白がよいです。
秋空にひっそり映える、白いお花。
穏やかな祖父の笑顔を反芻しながら、
なぜだか・・・・
そんなことを、思いついたのでした。
ぴょん
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