くるくるくろりくくろにくる
いんでっくす|ふるいの|あたらしいの
午前7時50分。
当駅止まりの私鉄はJRとのジャンクションである比較的大きな駅に滑り込んだ。
急行を待つ通勤客が整然と並んでいるホームに何かアザラシのように転がっている物体を発見し驚愕する。
背中のランドセルを背もたれ代わりに寝転んだ小学生が漫画を読んでいた。
平日の、朝の、ラッシュ時間帯のホームでだ。
( ̄ェ ̄;)
座る→寝る
進化しているなぁ。
幼い頃から、playerだったんだと思う。
物語に心を鷲掴みにされやすかった。今でもその傾向は変わらない。 多感な頃は結構迷惑をかけてたんじゃないかなぁ。 だから映画館で映画を見なかった。そのあとの現実との軋轢に死にそうな気分になるからね。
小説・漫画・ドラマ・アニメ・映画、どれもとても危険な存在だった。
こちらが付け入る隙がありながら世界観がしっかりしているものが特に危なかったように思う。
私が育った環境が、幾らでもどんな舞台でも拵えてくれる空の広い田園河川地帯だったのもこういった性質を育んだ要因だろう。
土手を歩く時、私は私じゃない誰かだったわけだ。
現在ではそこにGAMEって言うカテゴリーが増えてるんだよな。
まさにplayerなわけだ。
あの事を考えると胸が痛くなる。
結局人間は皆何かしら考える生き物なのだ。 良くも悪くも。
社会で生きていく上で、何時の間にか選択した理由ではないにも関わらず、何かしらの分母の中に属していて驚く事がある。 小さな「いいかも…」ぐらいのつもりが声高な「賛成!」に響いてしまっている事がある。
そして、小さな「ダメかも…」が声高な「反対!」に聞こえ、相反する相手が生まれている。
その分母と分子の取り合い。 パワーゲーム。
決して分母が正しいわけじゃないのだが、民主主義では正義に成り得る多数ってやつだ。
その互いの主義主張がぶつかり合った最大(現時点で私の考え得る)の結果があれなのか?
そら恐ろしくもあり、悲しくもあり、辛くもあり、ある意味大笑いだ。
昨晩BS2でやっていたドキュメンタリーを久しぶりに我を忘れて見ていた。 不思議な感覚に包まれていた。 個人としての固体の思考能力をはるかに凌駕する何か共通の大きな意識に囚われていたように思う。 アメリカのヒロイズムやら失ってしまったものへの感傷やら所謂分母を鬩ぎ合っている集団の意識とはもっと別次元の「人は生きる」てな感慨に近い意識。
生きる力。
私の好きな「健やかさ」という単語があれほど似合わない現場もない筈なのに、その単語が響いてくる。
人間はコンピュータでは無い。 電気的信号を0か1かで判別しているわけではないのに、答えはキッパリとその何れかだったりする。 そこへ辿り着くまでの微妙なニュアンスや苦悩の過程など結局1か0かの答えの前には無いも同然なのだろうか?
9月1日が防災の日なのは、関東大震災が起こった日だからだが、2年前に亡くなった祖母は実体験として知っていたんだ。 つまり、「関東大震災が起った日」と言う記憶ではなく、「あの大きな地震があった9月1日のことね」って認知だよね。 名前なんて後から利便性の為に付けられるものだね。当事者からはなんか遠いところでさ。
地震の時は必ず窓かドアを開ける習慣が付いている。これは父親の教育方針の賜物なんだろうか? 何れ良かったと思える日が来るのかもしれないが、そんな日やそんな目に合わないほうがきっと良いんだろうが。
白鷺の群れがが鳴き声をあげて川辺から飛び立った直後に地震が起こった。目撃したのは期末試験対策中の真冬の真夜中。やっぱ動物はスゲーやと思った。でもその感動も、震度3ぐらいで程なく収まってしまうと『チェ!大地震になって学校無くなっちゃえばよかったのに』なんて気分の方が大きくなってしまうものだった。
白鷺が飛んでいったのは西の方角。 これは、日本武尊。 西方、兜率天に向かっていったという伝説。 確かうろ覚えな知識で言うなら、そっちには弥勒菩薩が座しているはず。 悠久の時が流れた後、衆生を救う為に現われるのね。 日本武尊が弥勒菩薩に生まれ変わるって伝説もある・・・・・かな。
悠久っていうのは56億7千万光年のことらしい。
仏教は天文学と関わることがあるので面白い。
星間の距離を机上に載せて話さなければならない時、結局、目に見えて体で体感出来る以上のことは、すべて「むかしむかし・・・・」始まる話と同程度の胡散臭さがあると思う。 曼荼羅は宇宙の真理を著すものだしね。
真理を辿るってのはある程度の見識のある人間なら多かれ少なかれ試した事があるだろう。 何時も思うのは、真理はそれを真理だと思う物には真理だが、それを真理だと思わない者には真理ではないなどというオタメゴカシは通用しない筈なのだということ。
真実と真理は同じじゃないからね。
モラルもルールも1人で定義づけ出来るけど、一人が唱えていてもそれはモラルにもルールにも成り得ない。ポリシーだね。じゃぁ、ポリシーがその枠を突出していく為には、いったいどれだけの推進力が必要なのだろうか? 月に届くぐらいのエネルギーは必要だろうか?
「アポロは月に行っていない」ブームが再燃していたが、20年前にそんな話をしちゃったら、しちゃった事を後悔するぐらい非難されたっけ。 だからといって、今更、ほら見てみろとも思っちゃいないが。 でも、今回色々な否定的検証の中で、『当時のアメリカの技術力・科学力では有人ロケットを月に打ち上げることは不可能』っていう実も蓋もないっていうか問題の根源に触れるっていうか滅茶苦茶とさえ思える理由(?)が合ったので大笑いした。
|