不思議 - 2003年07月24日(木) こんな話を母から聞いた。 先週の日曜日、父が以前使っていた時計を、 母方の伯父につけてもらおうと、 母が伯母に渡していた。 その夜のことだったらしい。 夜、布団に入ってからのことだと思う。 伯父がわんわん泣き出したのだそうだ。 死にたくなかった、死にたくなかった、と言いながら。 体を動かし、暴れるようにしながら、と言っていたような気がする。 伯母はうん、うん、となだめるように伯父を抱きしめたらしい。 次の日の朝伯父にそのことを話すと、 全く覚えていなかったらしい。 伯父に父が乗り移ったのだ、と母は言っていた。 私が、 どうせ乗り移ったんなら伯父の車を運転してくれば家まで来ればいいのに、 と笑いながら言ったら、 家族のところにはまだ出られないだろう、 といったことを母が言った。 あの後私が「会った」父親。 私の夢に出てきた父は、 いびきをかいて昼寝をしている父、 何かから私と母を守るように立っている父。 母は、確か2度夢に出てきたような話をしていた。 1度は父に、何故一人で逝ってしまったの、と聞いたらしい。 父は、 だってお前はいなかったじゃないか、 という主旨のことを言ったそうだ。 笑いながら言った言葉には、 結構本気が混じっていたりする。 - 声をかけられる日 - 2003年07月22日(火) 通院日。 やれることだけをやる、やれないことは今はできない状態なのだから、 という基本的なことを何度も言われる。 大学で、T先生に声をかけられる。 T先生は、現在履修しているとある演習科目の担当。 先日欠席する際は、「身内の不幸」としか言っていなかったのだが、 私が大学に提出した欠席届を見て、身内=父と知ったらしい。 それに関係あることを、いろいろ話した。 その後でCせんせにも声をかけられる。 Cせんせにも聞かれたので、その時のことを多少話した。 母のことも心配してくださった。 あれ、私、おかんのことこないだ話したっけか・・・話したかもな。 話してなくてもあのせんせならそこらへん考えてもおかしくない、うん。 色々な人に気にかけて貰ってしまい、ありがたいやら申し訳ないやら。 明日の会議で、履修中の演習の履修が、 前期のみか後期までの通年かが決定する。 私の入学年度は前期のみだった演習が、現在は通年科目なのだ。 どうか前期のみでOKでありますように。 - ふとんのなか - 2003年07月21日(月) 最近実家に帰ると、母と同じ部屋で寝ている。 ゆうべは寝る前に父のことを考えたら無性に泣きたくなり、 母に慰められ(?)たあと寝た。 次の朝起きて、母曰く。 「お前、寝ながら泣いてたよ。」 どうも寝る前の涙が残っていたんだかなんなんだか、 寝た後も涙を流していたらしい。 「それ見てお母さんも泣いた。」 母を泣かせてしまった・・・不覚。 - 犬 - 2003年07月20日(日) うちで飼っていた犬がもらわれていった。 父が冬に猟をするために飼っていた猟犬。 散歩の時、自分の行きたいほうへ行こうとする犬で、 力も強いため、祖父が毎日散歩をさせるのはきつかったのだ。 また、猟犬として育てられていたため、 キジやヤマドリを見つけると、狙っていく反応をしてしまう。 なので、父と同じように、猟をする人に飼ってもらうことになった。 親戚がつてを使って探してくれたらしい。 父が亡くなった次の日、いつものごとく脱走をし、 祖父とふたりで捕まえに行った。 キジがいて、それを追いに走っていったらしい。 火葬の日、父が入った棺を霊柩車へ運ぶ時、 震えていたといとこから聞いた。 一時は保健所へ、という話も出ていただけに、 貰ってくれる人がいると聞いたときはほっとした。 同時に寂しかった。 家に帰ると名前を呼んだ。 小屋へ行くと、なでろとばかりに網から鼻を突き出してくる。 おりの間から手を入れて撫でていると、 最後には腹を出してくる。 子犬の頃から、腹をなでられるのが大好きな犬。 この日は、最後だからと思って沢山なでた。 他の知っている人がくると、犬は飛び跳ねた。 貰ってくださる方が着いた時、 知らない人が来た、と思って犬はほえた。 祖父が紐をつけて外に出すと、 散歩に連れて行ってもらえると思ったのかはしゃいだ。 いつも車に乗るときに入れていたケージに入れようとすると、 猟に行くと思ったのかすっと入った。 その方の車にケージを乗せると、やけにおとなしくなった。 車のにおいが違うと思ったのか、 別れることを感じ取ったのか。 猟などでよくこちらに来るというその方は、 5ヶ月して猟の時期になったら見せに来ます、とおっしゃって、 犬を連れて行った。 ・・・まだ小屋を見るたびに、犬の名前を呼びそうになる自分がいる。 - money - 2003年07月16日(水) 私立の専門学校はお金がかかる。 昨日、Y先生に前からお願いしていた某学校のパンフレットをもらった。 願書も一緒に入っているので、 大体お金がいくらかかるかがわかる。 「うちの大学はいってればただでやれるけど、 これぐらい金がかかるんだなーっての見ておけばいいよ」 この大学に入っていた中で、 いかに自分が時間と金を無駄にしたかを見せ付けられる資料。 - 広い視野と気楽さと - 2003年07月15日(火) 講義の後、Y先生のところへ行った。 将来のこと、もっと広い目で見てもいいんだよ、 これ、とだけ決め付けなくていいんだ、という話をされた。 毎度のことながら、新しく選択しなければならないこと、 新しい見方を提示されるのは苦しい。 今できることをするので精一杯だから。 笑いながらではあるが、きついのだということを口にしてみた。 しかし今はがんばらなきゃならないことも。 向こうも、今はがんばってやろう、ということを言っていた。 今はがんばれっていって大丈夫だよね、と後からつけくわえていた。 以前、先生がこう言っていた。 「少なくともここの部屋では、少し気楽に考えていい」 それが意識の中にあったのだろうか。 だんだん喉の奥が熱くなって、泣きたくなってきていた。 話がちょうどきれて、先生も何となく終わりにしたそうだったので、 立ち上がって挨拶をし、部屋を出た。 トイレに入り、自分を落ち着けた・・・いや、 再び感覚を麻痺させたというほうが正しいかもしれない。 毎度のことながら髪を引っ張ってみたり腕をばこばこ叩いたりで。 泣きそうだったので上を向いて涙を流さないようにしてみたりした。 あまり時間はかからずにおさまった。 いっぺん目の前でぷつっと切れて大泣きでもしたほうがよいのかしら(爆) - 生命保険 - 2003年07月10日(木) 今日、母が伯父と一緒に父の職場に行き、 色々な手続きや、荷物の整理をしてきたらしい。 その中に、保険証書を入れていたものがあり、 母が中身を見てみたところ。 6月11日から有効になっている保険があったそうだ。 母によると、父は小さな保険をかけ貯金代わりにし、 満期になってお金がおりるとそれを貯金したり、 自分の小遣いにしたりしていたのだそうだ。 多分、父が何気なく、貯金代わりにかけた保険。 こうなるなんて思ってなかったのだろうな。 - 「頑張る」こと - 2003年07月08日(火) 通院日。 保険証が変わったため、 受付の人が少し大変そうだった(機械入力など) 医者に、話すかどうか少し考えたのだが、 この1週間のこと、自分が今どう考えているかなどを話した。 「今はまだ哀しい時なんだから、無理はしなくていいんだ」 「気力で動いてるんだ、がんばりすぎるな、がんばらないスタンスで」 と言われた。 夜、ネットで会話していて、相手に言われて気がついた。 本当に自分が限界で、詰まった状態で動いていることを。 どこか感情が麻痺している感覚。 体がしびれている感じ。 過眠。 でも、大学は今ががんばりどき。 がんばらないなんて無理。 ほんとは休みたいけど。 - 少しずつ - 2003年07月07日(月) アパートへ戻る日。 親戚が来てくれていた。 祖母が言い出し、父のつり道具を片付け始めていた。 母に、バス乗り場まで送ってもらった。 今、家を離れたくはないが、家から大学には通えないので、 仕方がなかった。 私がいるうちにスーパーで買い物をしようと話をし、 食材を買っていたところ、 母の叔母にばったり会った。 声をかけられ、母は泣いていた。 大丈夫だ、と言ってはいるが、心配。 バスで大学近くまで行き、家には戻らず直接大学へ。 コースの教授とばったり遭った。 「大丈夫?」と聞かれた。 大丈夫と答えておいた。 欠席の手続きを済ませ、講義を受けた。 ひとりで食事する気がしなかったので、おけに来てもらい、 外でごはん。 家に着き、少しずつだが日常が戻ってくるのを感じた。 - なのか - 2003年07月06日(日) 本当の初七日。 朝早くに、叔父一家は帰っていった。 親戚がぱらぱらと線香を上げに来てくれた。 夜は、何日かぶりの家族だけのご飯。 ビールを1缶持ってきて、焼酎を飲む祖父と乾杯した。 みんなで布団を並べ、父のいる部屋で寝た。 - 式 - 2003年07月05日(土) 葬式の日。 雨はすっかり止んでいた。 午前中のうちに、母方の祖母に喪服を着付けてもらった。 どんな気持ちで、娘と孫の喪服を着付けていたのだろう。 家でお念仏を上げてもらい、焼香をし、 バスでお寺へ。 お寺にはたくさんの人が来て下さっていた。 弔辞を下さった方がみんな泣いていた。 弔電を読む親戚も泣いた。 喪主挨拶を母の代わりにやった母方の伯父も泣いた。 終わってから外に出ると、 外でも焼香してくださっている方がいた。 どうやらお堂に入りきらなかったらしい。 私の同級生も来てくれていた。 葬式・告別式が終わってから、初七日の法要も行った。 精進落としのお膳がでた。 母と、父がお世話になった方のところをまわった。 父の同期の方に、何年かぶりに会った。 お骨はこの日納めず、三五日に納めることになっていたので、 父も家に連れて帰った。 少しだけ、お骨を抱かせてもらった。 健康だった父の骨は、重かった。 - 雨 - 2003年07月04日(金) たくさんの雨が降った。 涙雨なんだ、と誰かが言った。 - 火入れ - 2003年07月03日(木) 火葬の日。 前の日までは霧雨が降っていたのに、 この日は止んだ。 母方の祖母に、喪服を着付けてもらった。 ぎりぎりまで、洋服か、着物か、という話が出たが、 最終的に着物になった。 祖母は行かない、と行っていたのだが、 最後なんだからと話しているうちに、 行く気持ちが固まったらしい。 家で、父とお別れをした。 火葬場でできるかどうかわからなかったから。 母と一緒に霊柩車に乗った。 途中、父の仕事場にもまわってもらった。 同僚の方たちが外で待って下さっていた。 涙が出た。 途中、日が差してきた。 火葬場につくと、たくさんの方が来て下さっていた。 お坊さんにお経を上げてもらい、焼香。 焼香に来て下さった方がとても多かったために時間がかかり、 焼香のあと、顔を見ることなく、 父の躰は釜に入れられた。 みんな泣いていた。 私は、涙がにじんだけれど、それ以上泣けなかった。 ぼろぼろに泣いている母の肩を抱えていた。 親戚もついていてくれた。 祖母は、母に伸ばしている私の腕によりかかるようにして泣いていた。 しばらく釜の前にいた。 その間に祖母は、祖母の姉妹が一緒に連れて行ってくれていた。 休憩所に母をつれていき、母のそばにいて、母を休ませた。 小さい頃からお世話になっている、私の同級生のお母さんも来て下さっていた。 母が多少落ち着いてきて、周りに親戚がたくさんいてくれるのを見て、 私は動いて、従兄弟や親戚たちと話をした。 火葬はとても時間がかかった。 1回目では焼けず、もう1度火を入れて焼くことになったのだ。 「逝きたくないんだねぇ」と誰かが言った。 「焼ける時になって気付いたんだねぇ」母が言った。 2度焼いた父の骨は、細かく砕けていた。 お骨の箱にいっぱいになった。 家族みんなで家の車に乗り、叔父の運転で、 小さくなった父を家に連れて帰った。 - その時のことからその後のことへ - 2003年07月02日(水) 母や祖母は、警察の事情聴取を受けたらしい。 病院以外で亡くなると、そういうことがあると聞いたことはあったが・・・。 二人とも気が動転していて、 内容が少し食い違うところがあったりもしたらしい。 しかし、状況などから向こうも考えてくれたのか、 事情聴取は1回で済んだそうだ。 30日は一睡もできなかった。 横になれと言われ少し休んだが、眠ることは全くできなかった。 30日から1日ぐらいまで、泣いてばかりだった。 1日、父を棺に入れた。 葬儀屋の人が、父の髭をそり、 舌をかんだ状態になっていた父の顔をマッサージ(?)して、 舌をひっこめてくれた。 硬直した父の体を動かし、服を着せられる状態にしていく葬儀屋さん。 されるがままの父の躰を見て、改めて死を感じた。 葬儀屋の人、父方の叔父、私、母で、父に服を着せた。 病院のパジャマを脱がせ、白い着物を着せ、草履を履かせたりした。 母は何度か父に呼びかけていた。 最後になっちゃうよ、お父さん、と。 全部着せたあと、最後だからと、家族で父の躰を触った。 何度触っても固く冷たいからだ。 あの暖かくやわらかかった頬も、ごつい手も冷たかった。 お別れのあと、父を棺に入れ、あることをした。 家族全員で布を裂き、それによって死者との縁を切るのだそうだ。 「みんなから縁切られちゃってどうすんの、お父さん」 母が言って泣いていた・・・。 私は、「それでもお父さんはお父さんだからね」と心で言いながら、泣いた。 父の顔の周りに菊の花を供えた。 棺の蓋をかぶせ、釘を打ち、見られるのは顔だけになった。 2日は、従兄弟に車を出してもらい、服を買いに行った。 本当に何も持ってこなかったのだ。 何度か父の顔を見た。 いつもの眠っている顔だった。 - そのときのこと - 2003年07月01日(火) 父の死因はくも膜下出血。 10箇所くらい出血が見られたそうだ。 いっぺんにぽん、と出血したらしい。 苦しんだ様子が全くない、というのが救いだった。 前日の土日、両親は、お友達夫婦と一緒に、 遊びに出ていた。 温泉で1泊して、日曜に帰ってきた。 日曜、父はどうも前日の酒が抜けてないな、と、 首筋を気にしたりしていたらしい。 それでも夜は、みんなで地元で寿司を食べ、酒を飲み、 楽しんでいたのだそうだ。 月曜、母が調子はどうだ、と聞くと、 「いいようだ、寝てれば大丈夫」と答えたそうだ。 顔色も悪くなかったらしく、母はそれを見て、仕事に行った。 その後9時ごろ、座って新聞を読むか何かしているのを祖母が見たそうだ。 それが、生きている父を見た最後。 うちのトイレは男性用と女性用があり、女性用は和式である。 父は、いつもの習慣で、朝、大をするために女子トイレに入った。 これまた習慣で、ドアに鍵をかけた。 夕方母が帰ってくると、トイレの前に父のスリッパがあった。 トイレにいるのだな、と思い母が声をかけるが、返事が無い。 叩いても叫んでも返事が無いので、ただごとではないと感じ、 母は男子トイレから手を伸ばして窓の鍵をあけ、 外に回って女子トイレをのぞいた。 そこには、紫色の顔をして倒れている父がいた。 母は慌てて祖父母を呼び、伯父を電話で呼び、 救急車を呼び、とにかく父を外へ出そうとした。 父は身長は高くないががっちりした体つきで重く、 母が外へ出そうとしたようだが出せなかったらしい。 祖父はトイレの窓から体を入れられず、伯父が父を外へ出したようだ。 (ここらへんの話はいまいちはっきりしない。) その時すでに父の体は硬直し、冷たくなっていた。 救急車が到着し、救急の人が「もうだめだ」と言ったそうだが、 それでも病院まで連れて行ってくれた。 そして、死亡が確認された。 -
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