セピア色の思ひ出

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2003年07月28日(月) ** 蛍も見たい **









今年初めて 蝉の鳴き声を 聞いた。



.....短い夏の 始まり......



2003年07月26日(土) ** ふと… **







久しぶりに、


「所さんの目がテン!」が見たくなっちゃった。


明日は頑張って早起きしようカナ♪


2003年07月20日(日) ** 刹那 **



試験前、試験中

勉強以外のことに精を出してしまうのは何故だろう??(悲)




部分的にな金魚がイヤだったので

仮・全金魚にしました。

突発的にやってしまったので、マダマダ。



改めまして、テストの終了とともに

正・全金魚にするぞ〜


2003年07月19日(土) ** さまー いず べすと **





夏季限定

 金 魚 ♪





八月(夏休み)になったらHP内

金魚一色にします♪










(お魚苦手な方、ごめんなさい(汗))


2003年07月18日(金) ** こんな誕生日もアリなのです **

昨日から発熱。

38度になる。

ベンザブロックを飲んだにもかかわらず、

その後も熱はぐんぐん上がり

深夜には39度を越える。

喉や頭が痛いのだが

熱のためか それらの感覚も麻痺。

熱の上昇とともに悪寒もなくなり

ただただ 体が熱い。



今大学はテスト中。

単位を落とす覚悟で学校を欠席して 

今日行きつけの大学病院へ。

採血をすると 感染症(いわゆる風邪)のため、

白血球が普段の五〜六倍に増加していた。



大学病院など、大きな病院になると

曜日ごとに診察医が違う。

私が普段診ていただいている先生は 水&土曜日。

金曜の今日、診察室では私の知らない先生が診察している。

少し抵抗感がある中、

病棟から私の担当の先生がわざわざ来てくださって

別室で診察してくださった。

「インフルエンザに近いモノだね〜」

と言われた。

でもとりあえず肺炎ではなく、良かった(ホッ)



解熱剤など、数種類のお薬が処方され、

今はそれらが効いているのか 

熱だけは無事36度代にまで下がっている。



そんな今日はくしくも私の22回目のバースディ。

同居人の妹が買って来てくれた

高野フルーツパーラーのケーキを二人で食べて、

チョットだけ幸せを感じられました('-'*)



そして、おめでとうメールをくれた友人達、家族

心から ありがとう(*'-'*)


2003年07月12日(土) ** 触れ合う **

今年は浴衣を二枚買いました♪

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←最初に買った浴衣。

 薄いベージュにピンクの小花がちりばめられています♪






毎度バイトのための足袋を購入させていただいてる

呉服屋さんで店員さんと一時間半の間仲良くトーキングしつつ

漸く決められた一枚。

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←浴衣二号。

 この写真だとハッキリしてないのですが、

 生地の中に特殊な糸が織り込まれていて

 ラメの閃光をささやかに放ちます♪




同じく、いつも足を運ぶ呉服屋さんにて。

こちらは奮発しました(T-T)

お財布の中に早くも秋風が吹きすさぶ…

でも、一番のお気に入りです('-'*)

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私は、買い物の際店員さんと仲良くなるのがスキ♪

店員さんにもよるけれど、

でもよく行くお店は大概顔見知りの店員さんがいる。



美容院では担当の美容師さんと

カットだけに一時間半かかるほど毎回話し込む。



深い関係になるのではなく、

その場だけの触れ合いで明るく話せる、

ちょうどよい距離感がスキ。

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2003年07月11日(金) ** 自分の病気�� **

病気になって大学病院にすぐ入院。

そして二ヶ月間毎日検査。検査。

全身検査。


当初は「膠原病(コウゲンビョウ)」ということはわかっていたけれど、

膠原病にも種類が複数あるから。 →★参考

だから更に細かい病名を割り出すための検査だった。


シェ-グレン症候群というはっきりとした診断がくだされるまでに

だいぶ日数がかかった。


入院中数回、別室で主治医による病気の説明会があった。

そして一番最初の説明会でまず言われたこと。



「出産は もうできません」



膠原病を患っていても、出産可能な方は大勢いらっしゃる。

でも私の場合は血液中の血小板(出血を止める細胞)が

およそ2万/��3しかないから。

それは基準値の12万〜40万/��3に対して随分少ない。

一度出血をするとなかなか止血されない私のカラダ。


出産時の大量出血は命に関わる。

最低でも5〜7万/��3は必要なのだそうだ。

そして大量出血は膠原病悪化にも繋がる。


シェーグレン自体は膠原病の中でも軽くって、

直接命に関わるような種のものではないのに…



私はその事実を耳にした時19歳で。

結婚とか、出産とか

そんな未来予想は全くといって持ってなかったけど。

でも、その時目の前が真っ暗になったのを覚えている。



お見舞いに来てくれるジョーに会うたびに

無性に切なくなった。

好きな人を目の前にして、何故か無性に……



私にも一応備わっているであろう女ゴコロが

そんな気持ちにさせていたのカナ…








でも

今ではそんな現実も自分の中では当たり前になった。

時間って、人の気持ちに変化を及ぼすために存在しているモノ。

最近 そう思えてならない。


2003年07月10日(木) ** 自分の病気�� **

** 今日の気分はルージュなのです **


あの四国の友人と話をした先月末から

自分の表情に笑顔が増えた気がする。

確実に。


以前の「自分」が少しずつ戻ってきているのかもしれない。



すべて「病気」のせいにするのはイヤだけど

でも健康を欠いた二年半前から今まで、

自分の心は順調に暗闇に向かってチョットずつ走ってきた。



↓↓↓ヤマイになってから…



●人と会うのがイヤになった。

日に当れない自分は日中ほとんどの交通機関を利用できないから

お出かけも一苦労。

また、昼夜関係なく少しのお出かけでも重たい倦怠感が襲ってくる。

友人と会うと、相手はワタシに気を使ってくれ、

だからワタシは相手に自分のハンデについて

なるべく気を使わせないように頑張って。

正直精神的に疲れてしまっていた。



友人達とどんな風に付き合っていいのか分からなくて。

だから人に会うのを避けるようになった。

誰かと出かけるといえば、専ら妹か、ジョーか。



病気になる以前からの友人と会うと

すっかり肌が白くなったワタシを見て驚くのが分かる。

小学校から高校までずっと陸上をしてた私には

小麦色のイメージがあったみたいで。

天然の色白の人とは違う、病弱っぽい白。



家族との付き合い方すら分からなくて。

ワタシが発病したのは上京してからだったから、

一緒に生活する時間がほぼ失われた私と家族の間には

相互理解も不十分になっていた。

両親は未だに私の病名を言えない。


実家へ戻った時、日当たりのいいキッチンでの手伝いを頼まれると

なんでそんなこと頼むの?私、日光ダメなこと忘れないでよ

って。

そう思っていた。

もう「大人」であるはずの年齢なのに。

もっと違う考え方をできなかったのかな、自分。

甘えることしか考えなくなってたただのどうしようもないコドモ。


自分が人付き合いでこんなに疲れるのは、

相手が自分の病気を分かってくれてないから、というオゴリを抱くほど

心が荒れてたときもあった。


でも、疲れてたのは、元気だった頃のペースで行動をしようとしていたから

ってことに、今さらながら気付いた。

今の自分に何が出来て何が出来ないか。

それが最近把握できてきたから。

今の自分のペースがつかめてきたから。


そしたら、気疲れも肉体疲労もグっと減って。



最近、どんなことに対しても頑張れる、頑張ろう、という気持ちが持てるほどに

自分のココロは回復した。


まさに今、トンネルを抜けられるかもしれない。

暗闇を越えると光の中に色んな答えが待っていて

今まで走ってきた道よりも広い道が開けていることを願って……


2003年07月05日(土) ** 二人の声�� **

(昨日の続き)


私は高校時代から、親に理学部志望をひどく反対されていた。

その理由が、理学部出たら何をするの?何の職に就くの?

だった。



実際は毎年、全国で何千(万?)人もの人々が理学部を卒業して、

不景気な世の中だから今はなんともいえないが、

いづれは立派な社会人となる方が大半だと思う。

しかし、当時、私は親の問いには何も答えられなかった。



私には、大学は「学ぶ場所」という考えが強かったから、

当時の夢といったら 院に行って、研究室入りすることだった。

今よりさらに子供だった私は「働く」ということを具体的に考えられないでいて。



でも私より随分人生を長く生きていて、社会も私より知っている親から見れば、

私の考えは相当なアマちゃんだったに違いない、と思う。

そしてまた、法学部を卒業して、今は事務所を開いている親からすれば

大学とは「学ぶ場所」というよりも、「就職への掛け橋」という趣向が強かった。



だから当時、親子は常に平行線を辿っており、

受験を目の前にした高三の頃は冷戦状態だった。


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今の私は、数年前から仲良くしている不治の病により、

学校生活も、日光が差し込まない場所…ブラインド完備 or 二部が望ましい。

且つ、立地条件が、地下鉄で通える都心に位置していること。

そして病気持ちは、就職も困難だってことは分かっている。

そういった理由は、私を夢から遠ざけさせていた。



今は日に当らないという理由で、とある学校の、

理学部とは程遠い法学部に在籍している。

それは、端から「どうせダメ。何もうまくいきやしない」と諦めていたから。

だから、とにかくとにかく安全に、無難に、生きようとしていた。

私は何一つ努力していなかった。

ただ流されて生きていて、昔の情熱だとか、強い意志だとかを

どこかに置き忘れたまま。



でも、「二人の声」により、私は少なくとも以前よりは色んな考えを

持てるようになったと思う。

ウジウジしなくなったし、これからもそうであり続けたい。

どうせ夢を叶えられないことに後悔するなら、何もしないままではなく

挑戦しても無理だったら、でヨイ。

大学で「学ぶ」。それが今の第一の目標なのだし。

前向きに。前向きに。



とりあえず最初の一歩は 理学部へ行くこと …かな。




              『 ウッシ!! 』 






2003年07月04日(金) ** 二人の声� �**

△▼ 一人目 ▼△

先週、私が 人生の師 と仰ぐ友人と電話で話をした。

彼は高校時代の友人で、現在四国の大学に通っている。→★(2002年11月07日の日記参照)

彼はいつだって頑張っている人。

勉強にも、生活にも、部活にも…。

最近あまり連絡を取り合っていなかったけれど、

先週の電話でもやっぱり、相変らずの頑張りやさんっぷりだった。

そんな友人に、私は今までたくさんのやる気と勇気をもらってきた。


その師匠に、思い切って自分の抱えている問題を全て打ち明けた。

彼の答えは実にシンプルなものだったけれど、

的確に的をえていて、彼との電話の後 私の心は一気に軽くなり、

未来が随分開けた気がした。


自分の進路も、

ジョーとのことも、

心の中でぐちゃぐちゃに絡まっていたものが

スーっとほどけた気がして。

ありがとうね、カナイ君 (^-^)ヾ



△▼ ニ人目 ▼△

先週訪れたお店のお客さんに、自分の諦めかけた”夢”の話をした。→★(2003年06月17日の日記参照)


するとその方は、宇宙開発を行なう企業や、その下請け会社などの存在を

いくつか教えてくれた。

茨城県出身の方だったので、

宇宙センターなどが置かれている筑波などの情報にやや詳しかった。

(その方自身は、観光のお仕事をされているのだけど)


家に帰ってから、さっそくHPで、そういった関連の企業を調べてみる。

魅力的なものがいくつかあって、どれも興味をそそられ、

時代の最先端を行く職種だから、就くのは相当難しいとは分かっていても、

「TRYしたい!」と、思ってしまった。

その初めて会い、もう二度と会うことのない人物の声により、

昔の夢(宇宙関係の仕事に携わること)が再燃してしまうだなんて、

自分でも相当影響されやすいナァって 呆れてしまうけれど。

でも、ヤッパリこのままじゃだめだ!って、

今の生活にいつも疑問を感じていたから。

だからもっと人生において、寝食を忘れるくらいの努力をしなくちゃ!って

今は思っている。


そのお客様は、飲食のあいだもずっと、私に「挑戦してみよう!」

と言いつづけてくださって。

帰り際、お酒もだいぶ入ってフラフラになりながらも、

呪文のようにそれらの会社について語ってくださった。 (続く)


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