しとしとと雨が降る・・・ 最近は、とても落ち着いている 散歩に出るようになり、眠りが深くなったようだ 来年 とある計画をしており、、、実現は? どうなるか まだ、ワカラナイが・・・
すこし体力をつけたいと思ったから
もう、20年以上前になるが、学生の時に行ったイギリスに 行こうと・・・この夏思った アイルランドにも行きたいと、、、
したの子どもが来年高校生になれば、すこしは手も掛からなく なるだろう 一番問題なのは、、むしろ夫だろうが、準備を怠らなければ というか、行くことには反対しなかったしそれはそれでなんとか なりそうだと思う
いつとは決めていない すべてこれから・・・それに気が変わってしまうかもしれないし 某宮ではないが、、いつかと思っていたら明日にはこの世に いないかもしれないし
わたしの毎日は 意外と消化試合のようなものかもしれない と、ふと思う これからのことといわれても将来の希望は 元気な老後やころり往生や あまりに漠然としている
どうかなあ?
車の運転中にNHKのラジオを聴いていたのだが、介護についての相談 という内容だった、、、 相談者は、いずれもお年寄りばかりでお互いの連れ合いの面倒をみている方たちの介護における悩みの相談だった。 皆、一様に介護をしている夫(妻)の介護の程度を要介護○と述べ相談事項を話し始める。 途中、用を足しながらなので、細切れに聴いただけなのだが、まず家庭で 夫(もしくは妻)の介護をしているお年寄りがたぶん多いのかもしれないということに気づいた・・・
ともに、健康で余生を送れるというのは稀なことかもしれない、 脳系の病気、痴呆などの介護をするのはやはり長年連れ添ってきた 夫婦のどちらかというのが多いのだろうか。 (もちろん、この相談を聴いたうちだけなので確かなことは判らないが 自分であったら、と考えてしまったのだ)
相談内容を2,3しか聴いてないが 食事に関するものがやはり 問題として大きなことらしい。嚥下する力の低下、食事に要する時間、、、果てはクチを開けてくれないなど、、、今のわたしには想像もつかなかったことだ。
しかし、これは起こりえないことではない。はっきりとそう思った。
こういうときに自分が介護を受ける立場になるというのは あまり考えず 介護をするほうが自分だと思い込んでしまうのもおかしいが 歳が上の夫を介護することを想定して聴いてしまってうのだった・・・
やはり、老・病・死は 常に近いところにある・・・ おもての陽のある場所、あたらない場所と分けられるものではないが少し暗い部分ということになるのか・・ 介護は一番近くにいるものがすべきという考えになってしまうのだろうな。
寝たきり十何年です・・という夫を介護する妻ももはや高齢者なのだ。 自分も大病を患って入退院を繰り返しています、、と言いながら、介護の 必要な夫の様子を話す声を聴いて どうぞ、がんばってとか、お元気で とか おためごかしのようなことは とてもいえるもんじゃないと つくづく思った。
老後が長いという気はいつもするが、余生というにはあまりに長い老後と いうのも、かなり辛いものがあると深く感じた。
先だって母の介護が必要になったときのことを想定して 姉弟と話し合っ たのだが、ある程度の蓄えも必要であろうから その確保と どのように介護者を決めるかということを色々出してみた・・・その時は、そうなってからとしか考えられなかったのだが、母はそこにはやはり不在でだれがどのように母と関わって介護するかだけが主眼だったのだ。本人の意志よりも 周りの状況が 左右する。 そうして、自分は、、、自分だけはそんな風にはなりたくないとだけ 思ったのをここでまた思い出した。
なんと、11月にはいってから、いちども日記を書いていなかった! 驚いてしまったが、、、自分ではそう日にちがたっているとは 気づかなかったのだ。
今夜は 実家より11時過ぎに帰宅した。 おおむね相続の件はキリがついた。 今 本当にほっとしている・・・
母の今後のことも考えての協議である。 もちろん、これからも 娘として母に逢いにいったり 姉と一緒に出かけたり 心おきなくできるように なるだろう・・・
協議が終わって この一連の父の死からの流れを思うと 家族の今後のありかたをもう一度新たに始める気持ちが 姉弟とともに生まれ 大変有意なものであった。
本葬が終わるまで、、葬儀にかかわってきた弟は 本当に大変だったようで また、姉弟こころから お互いにご苦労様と言い合うことができたと思う・・・・
一時、この 話し合いはいつまで続くのかという危惧もあったのだが ひとまずこれで終了し、、事務的な手続に入るところまで進んだ。
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