2008年11月28日(金) |
AIDS AWARENESS |
メルマガを出した当日に新しい情報が手に入ったりします。 …よくあることですが…。 12月2日に立命館大学でAIDS AWARENESSと題されたJAZZコンサートが開かれます。12月1日は世界エイズデイで、それにあわせてのコンサートです。
ここ12年間、エイズをはじめとして様々な社会の課題に音楽・芸術をとおして人々に関心を持ってもらうことを目的としたツアーを東京やニューヨークで継続して続けているレッド・シューズ・ファウンデーションを立命館大学が招聘したのです。
第一部がエイズに関しての講演。今、日本では毎日四人のペースでエイズ患者が増えているし、マスコミではあまり語られていないけれどアジアでは爆発感染のはず。そのあたりの話題も出ると思います。
第二部がジャズ・コンサート。中村照夫とライジング・サン・バンド。 中村さんはニューヨークで長らく活動されていたベーシストで、ぼくにとっては若い頃から知っている懐かしい名前です。 ゴリっとしたいい男ですよ。
12月2日立命館大学衣笠キャンパス以学館1号ホール。 18:00から21:00。 無料です。
うちからはとても近いのでこれにはいけそうです。
今週になって風邪をひいた人が多い。 ぼくの回りにもたくさん。 やはり休息がいちばんだから休んでもらう。
そうなってみて自分にあまり余裕がないことに気がついた。 要介護のレベルで言えば歩行補助の必要な愛犬の世話にけっこう時間も体力も使っていたんだ。
だから風邪ひきさんのバックアップにけっこう「あれれ」となってしまった。
気を引き締めないと。
気象台から今年の11月はここ数年来にない寒さだという発表があった。 毎年の暖冬傾向に慣れてしまっていた体が、慌てて冬モードに変わったような気がする。
大急ぎで冬が来たのだ。 これで京都は時雨の季節に入った。京都ばかりではなく日本海側の各地でもこれから短い間は時雨の季節である。
京都の冬の時雨(しぐれ)とは。 かんたんに言い換えれば「晴れ突然、時々氷雨」となるのかな。 晴れているのに突然とても冷たい雨が降り出して、突然止む。そんな天気。
日本海側はもう少しすると雨が雪になるから「時雨」ではなくなる。天気予報では「断続的に雪が降ります」なんて言い方になる。
京都市内は冬の間中、けっこう時雨が降る。 日本海から山を越えて舌の先のように雲が空わ覆ったり引っ込んだりする。 北からやってくるので「北山時雨」といったりする。 今日も典型的な時雨だった。 少し強かった。あっという間だったけれども。 光を浴びて松の枝の水滴が輝いていた。
うっとうしいのは洗濯物。すぐに取り込まないと台無しになる。 それでなくても乾きが悪いのに。 我が家では冬は部屋干し。乾燥機は余程のことがないと使わない。繊維にとても負担をかけている気がするから。だって「炙ってる」わけでしょう。熱風で。
昼過ぎ、文庫本が一冊到着。 トリイ・ヘイデン「よその子」。分厚い文庫本だけれどひらがなが多いから案外早く読めるかも知れない。
夜になって、気象台から西日本の12月は厳寒、という予報が出た。
2008年11月24日(月) |
いちばん簡単につくれるただ一冊しかない大切な本 |
「いちばん簡単につくれる、ただ一冊しかない大切な本」 といっても何のことはないクリアファイルに挟み込んで作る本です。
ぼくは大きなサイズのグラフ誌、例えば家庭画報でのような雑誌から気に入った記事だけをクリアファイルにいれて整理します。 もちろん雑誌を何冊も片づけて処理してしまうときに、そのように整理をすることが多いのですが、夢中になっている連載記事は買ったその日にはずしてしまいます。即ファイル、なのです。 グラフ誌は紙がとても上質なのでそのまま使えますし。
そうやって画像の美しい「イングリッシュ・ガーデンへの誘い」や「アリス・ファームの12ヶ月」などが出来ました。
クリアファイルのいいところは、見開きのページのまま置いておけること。 普通の無線綴じの本だとどうしたって閉じてしまうけれど、クリアファイルは開いたところで置いておけます。 普通の本で(例えば絵本におおいけれど)それをやろうと思うと糸でかがり綴じをするしかありません。 それ以外だとリング綴じですね。クリアファイルだとその手間が省けます。
で、小説では「新潮」に連載されていた池澤夏樹さんの「カデナ」を本にすべくバラしているところです。こちらは紙がとても悪いのでスキャナーでとりこみプリントアウトして作ろうと思っています。ページが多いので無線綴じです。
クリアファイルで作っている小説の本はただ一冊です。 吉田篤弘さんの「それからはスープのことばかり考えて暮らした」 上の画像がそうです。 オリジナルは「暮らしの手帖」に連載されていました。 同誌の本紙もいい紙なのでそのまま使えます。
もう普通の単行本としても出版されているはずですが、このクリアファイルがいいんですよ。 佃 二葉さんのカットがそのまま活かせることも大きな理由です。また字の大きさと余白がとても読みやすい。途中で止めてもそのま広げておけるし、丁寧に読めるのです。
「丁寧」といえば、吉田さんの本を読むと、暮らし向きが丁寧になります。 まるで「暮らしの手帖」の冒頭に掲げられた花森さんの宣言文のように。 だから常に横に置いておきたい一冊なのです。 クリアファイルは頑丈ですしね。
そういうのは苦手、という方にはもちろんオススメしませんが。
今年もたくさんの柚子が収穫できました。
今日は昼頃からぐんぐん気温が下がっていく一方。木枯らしが吹きました。 明日の朝は1℃の予報。 線を引いたように冬がやって来ました。 この冷え込みで市内の紅葉は一段と進み、絶好の見頃になった場所が多いようです。
読みたい本が次から次と出てくる。 基本的にどんなジャンルの本でも読める。 だから読書傾向なんてないと思っていた。ほんとに何でも読むから。
ただ、より「ひきこまれる」作家さんがいるな、と。そのことに気がついた。
それはまるで季節のように変わる。 今日は池澤夏樹、水村美苗、稲葉真弓。
本棚には、これまで「ひきこまれた」作家さんの本たちが軌跡を描くように残っている。その残った本もまた読むのだ。そしてまた軌跡が太い実線になっていく。そしてそこに新しい本が加わっていのだ。
ところで。 調子が悪いときは強制的に夜10時就寝を三日続けること、と教えてもらったのだけれど、一日目に強烈な悪夢を見たのでやめた。 たぶん想いの毒が吐き出されるのだろう。そして三日で出つくすのだろう。
読書は肉体も想いも変えてくれる。それでも駄目ならもういちどやってみようと思う。
現在まで三冊の本を作ってきました。 最初の「光函」はゴザンスで作って頂き、現在絶版です。 そうなる前に手もとにある程度の冊数を置いたものももうすぐなくなります。(ホームメイドのものが後を継ぎます)
二冊目の「音函」「街函」は完全に私家本。プリンター大活躍のホームメイドの本です。 おかげさまでほとんどネットだけで、少ないけれど確実に読んでくれる方にお送りすることが出来たと思っています。
特筆すべき熱心な読者の方は、近所のパン屋さんで買ってくれる方たち。ぼくの本をお店で売っているのはそのパン屋さんだけです。
ネットに向かって、発言し、ものを書き続け、発表しつづける以上、この姿勢はずっと続きます。 そしてこの三冊はいつまでも「ただいま現在の本」であり続けるのです。
時間の流れに沿って書いたものだけれど、ひとたびネット上に載ると、時間的な差は消えて、まったくフラットな横並びの「製品」になります。 このことは最近感じたことでした。
今日、京都在住の方から三冊同時の注文を頂きました。 メルマガでのぼくの文章を読んだことがきっかけだったとおっしゃる。
ほら、やっぱり、誰かがどこかで読んでくださっているんだから…。 気持ちを新たにする夜でありました。
明日朝五時、いつものようにメルマガが届きますよ。
「ぼくはブログは書きません」といったのは姜尚中さんだった。 久米宏の「TVってやつは」の中でだった。 ホリエモンとのやりとりの中で「カンヴァセイションがないから」といったような理由だったかな。
ちらりとしてしか見てないから、理由はおぼろげなんだけれど、「ブログは書かない」ということははっきり聴いた。姜さんのいいたいことは肉体をともなった会話こそ、より実りがある、ということなのだろう。一つの話題からおもいもよらない様々な事象が会話や討論の中で立ち現れることなのだろう。
ネット書店を検索するのと実際の本屋さんを歩いて廻るのとの違いのようなものかな、と理解したんだけれど。
それとぼくの回りで、ブログを通じて他人の日常なんか知りたくもない、という意見が大勢います。わかります。ほんとになんなんだブログ、と思うことがあります。
そんなこんなでぼくの日常ですが…。 土曜の朝も定番があって、やはり8chで8時20分過ぎぐらいに「どようびのにゃんこ」を見て和み、そのあとBS2で「週刊ブックレヴュー」を見るのです。 「週刊ブックレヴュー」はおもしろかった。今回の評者のひとり、文芸評論家の石川忠司さんが、いちいち優しくツッコミをいれるのが特に。 石川さんが推薦する今年の文学界新人賞をとった「いやしい鳥」の作者、藤野さんは同志社大学出身でした。知らなかったな。 本のレヴューを聴いていて、先ずぼくは読まないだろうな、とは思いました。 読書の傾向としてタイプが違うので。 ちょっと小川洋子さんに似ているのかな、とも思ったけれど。
今読んでいるのは、文庫化された「ダックスフントのワープ」藤原伊織、文庫で「すばらしい新世界」池澤夏樹、「新潮」12月号。 定期購読している「新潮」のほうに山崎ナオコーラさんの短編が掲載されていて嬉しくなった。これも読みます。
最近では文芸雑誌でもCDがついていることが増えてきていて、「新潮」では今回、小林秀雄の講演会の貴重な音源がついてきました。 これについての茂木健一郎さんと白洲信哉さんの対談もとてもおもしろい。 茂木さんは「声」という「肉体」に触れる体験をとても大切にしていて、特に小林の声に出会うことはほとんど奇跡的な体験なんだ、と。 たしかに声が聞き手の内部におこす「何か」はある、と。聴いていてそれは感じました。
「新潮」に附いてきた「CD」としては過去に古川日出夫さんの詩の朗読のCDがありました。美声に驚いたことを憶えています。
ところでミクシィラジオでお金を出してもなかなか買えないジャズやブルースのとても古い名曲をよく聴いています。 テープやCDも肉体の生んだ表現の貴重な記録でもありますね。
小林秀雄が名著「モォツァルト」を書いたとき、SP盤でしか聴いたことがなかったというエピソードからも、なにを聴いたか、というのもある程度大切だけれど、感性と想像力をどれだけ研ぎ澄ますかということこそもっと大切なことだとおもいます。熱を孕んで対象を抱きとめる精神、というか。
世界や人の本質、豊かさ、美しさに触れるためのコツなのかもしれません。
2008年11月04日(火) |
「私の一冊、日本の百冊」 |
最近、朝のテレビで必ず見る番組として「きょうのワンコ」に加えて、「私の一冊、日本の百冊」が加わった。
「きょうのワンコ」が8チャンネルで、だいたい午前7時52分に始まる。僅か一、二分の番組だけど、犬の顔を見て和んだあと、チャンネルをNHKBS2にする。 午前8時から10分の番組。
人生に大きな跡をくっきりと残した一冊、忘れ得ぬ一冊、人生を変えた一冊を読書好きで知られるタレントや著名人が紹介し、語るのである。 短いけれど本の一節も朗読されるし(これがまたNHKの誇るベテランアナウンサー陣でとてもいい)、簡潔に思いが吐露されるので、ぐっと気持ちが入ってくる。
最初からすべて見ているけれど、一番ずしん、ときたのは俳優・児玉清さんの一冊。「蝉しぐれ」藤沢周平だった。 俳優としての才能に行き詰まりを感じ、いかに生きていくべきか悩んでいたときの励ましと勇気をもらったという。 もう一人、モデル・押切もえさんもその一冊について切迫感のある思いを語っていた。それが「人間失格」太宰治。
光浦靖子さんの「八日目の蝉」角田光代。内山理名さんの「私的生活」田辺聖子もよかった。
みんな本が好きなのだ。そしてその本からとても大切な人生の滋養を頂いているのだな、というのがわかって人ごとながら嬉しくなってくる。 作家にしてもここまで深く読まれれば冥利に尽きるだろう。
翻って自分はどうか。あなたの一冊は何ですか、と問われたらどう答えるか考えてみた。
一時期、ジャズばかり聴いていて本をまったく読まない時期があった。 そこからまた小説を読み出したのは「1973年のピンボール」村上春樹だった。読んだことのない新しさがあった。哀しくて乾いていた。こんなに優しくて哀しくて柔らかな感性に触れていれば「これからも生きていける」と思った。
同じく本を読んで、この読後感を忘れずにいれば「まだ生きていけるんじゃないか」と感じたのは「八百万の死にざま」ローレンス・ブロックだった。
この二冊。 どうしても一冊、といわれたら村上春樹になるかな。
これからのラインアップ。これまでの放送の紹介は こちら でわかります。
読書好きな方は是非。オススメします。
月刊「新潮」に連載されていた池澤夏樹さんの「カデナ」が10月号で完結した。もう先月のことだけど。 全16回のすべてをもう一度読み返そうと、机の上に「新潮」を積み上げて順番に読んでいった。
池澤さんの作品には時の流れと地理の配置を特に意識させられることが多い。俯瞰したり接写したり、視点の移動がたのしい。
「カデナ」はタイトルどうり沖縄の米軍基地が舞台の中心。そこに交錯するおもに四人の男女が交代で「語り手」になる。 毎号の冒頭にその回の語り手が太字で書かれるのだ。
それぞれが歴史を持ち、背景を持ち、考えを持つ。「四つの一人称」に囲まれたまん中に四人が織りなしたドラマがある。 その見え方が面白いし、物語の厚みになっている。
「沖縄」は「アジアのクロスロード」とたとえられることがある。 海で繋がりやすい地理なのだ。だから中国、韓国、東南アジア、そして本土から人が往来する。そのうえアメリカだ。
「カデナ」に登場するのは沖縄人、ベトナム人、アメリカ人、フィリピン人である。そして前述のようにそれぞれが「物語」を抱えて人間関係が織られていく。現実もそうであるように。
そして結ばれた関係はやがて解けていく。何かを成し遂げているのかも知れないし、そうでないかも知れない。 結果的にだれもが平和と生命を尊重していたとしても、それは大上段に意識されない。あくまでも個人として、生きてきた経験と背景からの言葉であり行動なのだ。それは作品を貫いている。 これは重要なことだろうと思う。 この「作品後」も、彼らひとりひとりは、それぞれに未知の人と関係を結んで、生きていくのだろうとしっかり思わせてもくれるのだ。
「小説とは人と人の関係を書くもの」というのもテーゼの一つだと、かつて池澤さんが金原ひとみさんの「蛇にピアス」を芥川賞に推す理由として書かれていた。「カデナ」はまさにそういう小説だった。
ここのところ池澤夏樹さんの本ばかり読んでいる。ミクシィに書いたレヴューも池澤さんばかりになりつつある。 文章が美しいのも好きな理由だけれど、とても官能的であるとぼくは思う。誰も書かないけれども。
いま「すばらしい新世界」を読んでいる途中。 続いてこの続編にある「光の指で触れよ」を読む。 そのあいまにも短編をつぎつぎと読んでいきたい。
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