ほとんど犬の横から離れずに本ばかり読んでいる。 長編小説を立て続けに読んでいるせいで、自分の感受性の古い殻がぼろぼろと割れていくのがわかる。なに、またその下にまた新しい殻を見つけるだけなのだけれど、絶え間ない読書は絶え間ない自己の脱皮であることは間違いないだろう。
こないだはあまり読み過ぎたせいか、眼の周りが黒ずんでしまい、人からずいぶん怪しまれた。最近は眼科でつかう目薬が市販されているようなので試してみようと思う。現在使用中なのはVロート。
それにしても物欲である。理由を書いても恥ずかしいだけだから欲しいものを吐き出して恥をさらそう。
Air MaC、オリンパスペン、JBLスピーカースタジオモニター、BOSEのラジカセ、Adobeのソフト「イン・デザイン」、リーボックのポンプ・フューレイ、
さて書いたから忘れよう。 たぶん実際に買うものは一つもない。
2009年07月26日(日) |
高村薫/太陽を曳く馬/マーク・ロスコ |
NHK「日曜美術館」の再放送をようやく見ることができた。 特集されていた画家はマーク・ロスコ。20世紀抽象絵画の中心にいた人物の一人である。 ロスコを愛する作家として紹介されたのが高村薫さん。 ここのところ彼女の作品をずっと読み続け、新刊「太陽を曳く馬」に辿り着く計画を実行中であるぼくとしては何としても観たかった。 作品への補助線としてロスコの絵も何としても観なければならなかった。
高村さんと番組の司会者でもある姜尚中との言葉のやりとりも素晴らしく、表現するということ、生きるということに改めて全力で向かうことができる。感慨をおぼえた。
意味の彼岸…意味からの解放…手触りと空気。 これらの言葉を胸に、果たして言葉の外まで歩いていけるだろうか。 それが僅かな歩みしか残せずともいけるところまで行こう。そう思えた。
ところでマーク・ロスコの絵は滋賀県立近代美術館にコレクションされているはずである。ここはアメリカ現代美術の凄いコレクションで有名なのだけれど、常設展で観ることができるだろうか。 高村さんは言う。 「絵は眼で観るものではない。全身で『観る』もの。だから図録よりもやはり絵の前に立つこと…」と。
その高村さんでさえ図録でしか出会えなかったのだ。そして世界に散逸しているシーグラムビルの壁画を千葉県の美術館が一堂に集めたのだった。
不思議な、怖いような、無意味のような、饒舌のようなしかし心に突き刺さる絵だった。 実際の絵の前に立ちたい。
高村さんの新刊「太陽を曳く馬」のカバーはロスコの絵である。もちろんシーグラム壁画の一点だ。
「おとなのコラム」の連載、更新しました。 「スワロウ・テイル」というタイトルです。 こちら。 それから読書感想文も。 「終の住処」・磯崎憲一郎 こちらです。
ゴルフの全英オープンを見ていて寝不足になりました。 ゴルフ発祥の地にふさわしい、もの凄くワイルドなコースで、日本の若き俊英・石川遼がどこまでやるのか見届けてやろうとしていたのです。
毎年、行われているからそのシーサイドリンクス(海岸に立地する場)の悪魔のような各地のコースのえげつなさは普通の人間でも画面で知っていたし、石川君はそれこそ何度もビデオで観て心を躍らせていたのだと思います。
今年はスコットランドのリンクス。やはりとんでもないコース。 (全英オープンの開催はシーサイドリンクス(海岸に立地する場)に限るという不文律があります) 日本のゴルファーなら「こんなのコースじゃねえ」と怒り出す人がいるだろうなとおもうぐらい、フエアウェイ以外は荒れるがまま、自然のままのコースでした。 だからこそゴルフなんですけどね。 これがゴルフの原型。
初日はイギリスの海岸沿いではめずらしいぐらいの好天に恵まれ、アンダーパーで廻った石川君でした。インタヴューにも誠実に考えて英語で答える彼に、excellentという言葉が投げかけられてもいました。
ただ、「明日はドライヴァーでもっと攻めたいですね」と意欲満々に答える彼に多くの方が危惧を持ったのではないでしょうか。ぼくもそうでした。 なんせほんとにとんでもないコースだから。
そして二日目が始まり、当初はコンデイションも良好。同じ組のタイガー・ウッズも石川君もまずまずのスタートを切りました。ところがよりによって海沿いの10番ホールで天候が牙を剥きましたね。冷たい雨と海からの烈しい風。しかもここは断崖から海を越えて行く厳しいホール。
タイガーも石川君も果敢に攻めました。 そしてこのホールで二人は打ち砕かれてしまいました。かたやロストボール。かたやアンプレイヤブル。 このあとのホール、二人はショックを引きずりボギーを重ねていきます。ようやく後半、タイガーが二つの、石川君が一つのバーディーをとり、まるで自分たちの意地をぶつけるようにして、この難コースでのプレイを終えました。
寒さで硬くなる手と体。とんでもないアゲインストの風。誰でも刻んでいきます。二人ともそんなことは承知の上でのチャレンジだったのでしょうね。
これをどう見るか、です。 勝負としてはとてつもないリスクを抱えてのギャンブルともいえます。 無謀かも知れない。 だけど群れから抜け出すためには、あえて挑むべきでもあります。
タイガー・ウッズはそんなプレーを何度も見せつけてきていたし。 そこに挑むための準備もきっちりとし、自分に力はあるという自信とプライドが果敢に攻めさせていったのでしょう。
石川君はどうか。 プレイ後、本人が「悪いコンディションの時なのにバープレイでまとめていく勇気がなかった」と自己分析していました。 攻める勇気より退く勇気の大切さ、ということなのでしょう。
勝負にこだわるのならそれは正しいと思います。 そして観ている側は、勝ってほしい、いいスコアで廻ってほしいという思うが故にギャンブルに近い攻めに「危惧」をおぼえ、その結果「失望」という感情を味わったのでした。
ただ同時に彼らにはまだまだノビシロがあるな、ということも感じたのでした。 小さくまとまらず、スケールの大きなプレイをし、意欲を見せ、結果をきっちり見つめることができたということは、さらに大きな飛躍への教訓ときっかけを得ることになったのではないだしょうか。
石川君はそういう意味でとてもいい経験をしたようにと思うのです。
来年の「The Open」が楽しみです。 今年まだ17歳なんですから。
はまっています。 高村薫作品。
以前から読んではいたんですが、もっと熱心に読む対象が他にありました。 ここのところずっと高村さんの長編小説をもう一度最初から読み直す作業を続けていて、そうしているうちにどっぷりとはまりました。 そもそも24日に「太陽を曳く馬」が発売されるので、三部作のうねりのまま突入しようという心積もりだったのですが、長編小説ばかり連続で読み続けると、もう駄目です。逃れられなくなりました。
今、「晴子情歌」の上巻から下巻に入ったところだけれども、圧倒されています。
またこれだけ長編小説ばかり読んでいると、「小説漬け」になっていく感覚がしています。 が、もっとずぶずふに漬かりたいので、どんどん読んでいくのです。
ところで高村さんは、以前あるインタヴューで21世紀に文学は滅びると語っておられました。つまり映像などと結びついた形では残るだろうけれど、言葉のみで編まれた形態はなくなるだろう、と。 まるで水村美苗さんの主張とリンクしています。 原因は世の中で使用されている言葉の数が極端に減ってきているから、とのこと。
「滅びるのが惜しいから私は書く」ともおっしゃっていて、ということはまだ小説は続くな、と。
ではネットで書き続けている自分はどうなのかというと、だからこそ書き続けるわけです。 文体と物語を追っていきます。
それにしても「晴子情歌」も凄い。 もうなんというか時間も舞台もスケールも緻密さも桁違いに凄い。 タフで硬質な文体や内容だけでなく、みずみずしい描写が至る所に散りばめられているのですよ。
ある程度の年齢の方ならご存じの、北原ミレイ「石狩挽歌」という唄が身に沁みてきます。 これは、なかにし礼さんの作詞ですが。
次は「新リア王」。これはもっとタフです…。 しばらく無口になりますね。間違いなく。
2009年07月11日(土) |
バッハ:無伴奏チェロ組曲 |
最近、午前四時から五時の間に起床している。 掃除をし、珈琲を淹れて一服するのがだいたい五時半ぐらい。 その時に音楽を流し始め、ずっと朝食前までそのままにしてちょこまかと動くのだけれど、その音楽が最近、バッハの無伴奏チェロ組曲になった。
「歴代の」朝の音楽。 ラジオの時もあれば、パット・メセニーの時もありキース・ジャレットの時もあった。スピッツやヒッキー、「にゅあん」までそれこそいろいろ。 それでもトータルで見るとバロック系、とりわけバッハの曲が多い。それも例えば「主よ、人の望よ喜びよ」などのカンタータかオルガン曲、あるいは「ゴルドヘルグ」などが多かった。
それが「無伴奏」に行き着いたような気がしている。この音楽からはこれ以上ないほど余分なものが削ぎ落とされている。流れるような旋律の中で「島」のようにいくつかの音が強調される。そして流れる。流れる。 そこに心身が同調するようになったのだろう。
もともとチェロの練習曲として楽譜もばらばらにななり時間の経過の中に半ば埋もれていたこの「組曲」を発掘し、再評価し、統合し、演奏を磨き上げ、世に問うたのはパプロ・カザルスだった。 以来この組曲は「チェロのソロ・レパートリーの最高峰」(ヨーヨー・マ)と言われている。
カザルスに言わせれば「バッハのすべてであり、音楽のすべて」ということになる。 そのシンプルさと演奏の長さと重低音の連続に、しんどいという人もいるし、寝てしまう人もいる。 だけどぼくの心身にはとてもいい。
ぼくがもっているCDは、ヨーヨー・マの演奏と、ピエール・フルニエの演奏。今のところヨーヨー・マの1997年に再録音したものをよく聴く。
ところで六つのパートに別れている組曲の六番目の楽譜にバッハはある指定を残している。 「五弦のチェロで演奏すること」
いうまでもなくチェロは四弦である。ここに高音のE線がついたものが五弦チェロなのだ。現在この古楽器は再現され、その演奏もなされている。
そもそも五弦を四弦で演奏しているのだから、六番はテクニック的にも難しいとされてきた。 その古楽器による演奏を、実は昨日観ることができた。
五弦チェロは肩からのストラップで楽器を吊して弾く。だからヴァイオリンのようなニュアンスがあって、確かに音も軽いように感じた。 バッハの意図がこちらの楽器にあるのだとしたら、これも一枚、手もとに置かねばなるまい。
ところで老犬ハナが心安らかに聴いてくれるのはこの無伴奏チェロ組曲と斉藤忠光氏のピアノ・インプロヴィゼーション「光流」だけだ。ハナの境地にやっと追いついたか…。
昨日の夕方のニュースで日本に二ヵ所しかない犬のリハビリセンターのうち、尼崎のセンターを紹介していました。 日本では高齢の犬たちのリハビリ、例えば脳卒中だとかヘルニア手術の後遺症などによる歩行障害や加齢による関節の衰えなどをカバーする技術は飼い主にまったく紹介されてきませんでした。 尼崎ではアメリカで先進の獣医を学んだスタッフによるいろいろなリハビリが行われています。
そんな中で家でもできると思えたのが肉球マッサージ。 神経に刺激を根気強く与えることで一定程度の成果が上がるといいます。 番組では下肢がまったく動かないシーズー君に施術していたけれど、少なくとも立って歩き出したすらびっくり。
わお!!! そんなことならハナにもっとやってあげるのに、と今日から調子の悪い後ろ脚の肉球を暇をみつけてはもみもみしています。 若くて元気な頃は足を触られるのを極度に嫌がったハナだけれど、されるがままにしていました。だけどこれは悲しいかな神経の伝達が悪いことを証明しているようなもの。ぴくんぴくんと反応してくれたらいいのに、と思って続けていると段々と反応が返ってきました。 気が遠くなるような根気が必要かも知れないけれど、こんな簡単なことならいつまでも続けてあげられそうです。
もうひとつリンパマッサージも身につけたいな、と思ったのだけれど、考えてみればこれ、人間と一緒ですよね。 足裏マッサージは犬のほうが敏感なのかも。
2009年07月03日(金) |
月下美人が咲きました |
画像は昨夜の10時頃。 合計三つ咲きました。明日のメルマガに画像をたくさんくっつけます。
香が強いですねえ。
2009年07月02日(木) |
今夜、月下美人が咲きます。 |
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着々と成長を続けてきた我が家の月下美人の蕾。 夕方、開きかかっつているのを確認。 現在、ゆっくりゆっくりと開花中。 画像は6時過ぎのもの
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