あたろーの日記
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2006年12月01日(金) 『贋物漫遊記』

 旧暦10月11日。
 月末はやっぱりじたばたするなあ。今の職場に派遣で来てもう7年?8年?毎月厭きもせず(?)同じようにパニ喰っている月末業務。もしかしてこういうのが案外性に合っているのかも、と、ふと思う。
 前回の日記、なにをカリカリしながら書いてんだ、と、自分で呆れてしまった(汗)。
 今年の2月だか3月だかに、ミニコミ誌というのかリトルマガジンというのか、ともかく仲間内で好き勝手な雑誌を作ろうという企画が持ち上がって、第1回目の編集会議(兼呑み会)を開いたまではいいけど、メンバーそれぞれが仕事で忙しく、原稿の締め切りがどんどん後倒しになって、いつの間にか雑誌の企画そのものが自然消滅したような雰囲気になった。
 が、ここに来て、その企画仲間と雑談で盛り上がり、それは、「当人だけが普通だと思っているが実は普通ではない日常の習慣或いは家族のしきたり」という、前回の日記に書いたようなことを謂わば逆手に取って楽しんで考えようという(?)、発想でありますが、じゃあこれをミニコミ誌の特集のひとつにしよう、ということになった。あ、みんな雑誌作りやめたわけじゃなかったんだ、というようなことを言ったら「変酋長が忘れたのかと思った」と、言われてしまった。私が動かなかったのがいけなかったんである。ともかく、本格的な活動再開は来年の頭ということに。
 それまでに、「当人だけが普通だと思っているが実は普通ではない」件を、各人が細々とリサーチ続けることにする。

 職場の、ただただ呑んでわいわい盛り上がりたい人々の呑み会があったのだけど、気持ちだけエントリーして、身体はちょっと残業して帰ってきた。ほんとうはみんなと呑んで笑ってうだうだやってたいんですけどねぇ。しかし、今月は忘年会や歓送迎会があるし、年末年始の帰省費用(交通費+土産+お年玉資金)も準備しなくちゃいけないし、観たい映画もあるし、新年古書市で使うお金がなくなるのも哀しいので、ぐっとこらえて呑み会に背を向けて帰ってきた。職場ののんべい仲間と呑むと、恐ろしいことに気持ちが大きくなってしまって、「明日は休みだから朝まで呑んでいよーぜい」という流れになってしまう確率が、3割くらいある。そうなった場合、自分が言い出しっぺの確率は5割ほどである。そのくせ、私は朝まで起きていたためしがない。だいたい1時半から4時くらいの間、朝まで営業しているチェーンの居酒屋のソファーで爆睡してしまい、起きてからテーブルの仲間の食べ残しを見て、「う、私もそれ食べたい」とぼやく頃には閉店で追い出される羽目になる。「朝まで呑んでいよーぜい」と、言ったはいいけど、いいのは終電がなくなろうという瞬間にまだ呑み屋でコップに口をつけているというなんとも言えない幸福感だけで、その後1時間もしないうちに睡魔に負けてさっさと寝てしまっては、居残りした意味が全くないんであるが、呑んでる最中というのはそこまで頭が回らない。しかも同じように帰りたくない(家が遠い、帰っても誰もいない、鍵を開けてもらえない)仲間がいるから、相乗効果でなおさら居残りたくなるからやっかいだ。しかも、朝まで残ろうと、夜のうちに帰ろうと、どちらにせよ、二日酔いの可能性がひじょうに高い。
 そういうわけで、呑み会に背を向けるのはとてもとても辛いのだけれど、しかもカバン持って職場を出ようとすると、「あれ?今夜行かないんですか」と、足首を捕まれてずるずると引き摺られるような台詞が聞こえてきて「ううう・・・」とよろめきそうになるのだけど、帰ってきた。気持ちだけ残して(まったく大袈裟な日記だな)。
 で、自宅近所で呑んで蛙。
 いつもの居酒屋で2時間ほど、餃子とまぐろぬたとお通しのおでん、中生と焼酎のお湯割り、とお茶漬け。読みかけの『贋物漫遊記』(種村季弘/ちくま文庫)を読み終えるまで、ちびちび呑む。
 種村氏の本を読んだのは初めてだ。氏の編んだ随筆集は読んだことがあるけれど、氏の文章そのものをまるごと味わうのはこれが最初。「贋物」について書かれており、博覧強記の種村氏だから話があちこち飛ぶ。だから知識が薄い私にはどうも理解しにくい部分も多いので、何度もページを行ったり来たりする。けれども、面白い。マダム・タッソーの蝋人形、鼠小僧次郎吉、日本にあったキリストの墓、の話とか。この直前に著作を読んだ内田百�寮萓犬里海箸盻个討�る。と、同じ2006年復刊ちくま文庫のタイトルにもある古川緑波(ロッパ)の話も。『ロッパの悲食記』も、書店に並ぶうちに買おうと思う。
 お茶漬けをレンゲですすりながら、『暗殺者』(ロバート・ラドラム/新潮文庫)の上巻を読む。まだ読んでなかったのか!と、そうですまだ読んでないんです。先日古書店から送られてきて、最初の数ページを読んで、これは夢中になりそうだから、通勤途中とか、読んでる最中に本を閉じなきゃならないシチュエーションは避けたい、と思いつつ、引き込まれそうだったので、慌てて読むのをやめてました。何時間でも座って読んでいられて、どっぷり浸れる日に読もう、と。実を言うと、『暗殺者』を愉しむために、呑み会我慢したのもある。案の定、お茶漬け食べ終わっても本を閉じることが出来なくなった。店内、23時近いにもかかわらず、新しいお客さんが2組入ってくる。賑やかになったのを潮時に、お勘定を済ませて外に出る。
 すぐそばの銭湯で、熱い湯にじゅーっと浸る。空気がひんやりしているから、露天風呂の湯気がもわもわと白く上がっていくのが不思議なくらいよく見える。湯船の縁に腰を掛けて、足だけお湯に突っ込んで、湯煙が暗い夜に向けて立ち上っていくのをずーっと眺めていた。なんだか、霊魂が集団で地獄の釜から昇っていくみたいだ、と思った。
 
 


2006年11月28日(火) うるさい、ほっとけ!

 旧暦10月8日。
 昨日書いた中に間違いがありました。『江戸東京《奇想》徘徊記』は、復刊じゃなくって、「待望の文庫化」(帯より)でした。すいません。
 NHKの受信料って、テレビない家は当然払わなくていいんですよね。私はかなーり前に、杉並に住んでた頃だったかにちょっとだけ払ったきりで、今の住所に移り住んでからもNHKの人訪ねてこないし(不在がちだからかな)、訪ねてきたら「我が家にはテレビありません」と言うつもりではいるのですが、ネットのニュースとか読むと、未契約世帯もなんらかの措置を取るらしいし、そんなこと言われたってテレビがない家庭(私の周囲にも少なくとも3世帯ある)や、テレビが飾りだけでたとえば家と会社の往復でテレビ見る時間全くない独身者だって、存在しないわけじゃないだろうに、誰もが当然テレビを見る、或いはテレビ放送が価値あるものだ、という考え方のもとに行動しているNHKって、やっぱ嫌いだなー。私はテレビが嫌いだし、不要だと考える人間なので、NHKの受信料絶対払わないよ、つうか、テレビないから当然払わないもんね(意固地)。
 それにしても、受信料払わない世帯を対象に民事手続きとは、NHKの感覚ってやはり凄く殿様だなあ。そんなに価値ある放送局なのかな、そんなことするほど立派な放送局なのかな、と思っちゃう。自分たちのこと棚に上げてるとしか思えないし。
 ・・・人と話していて、テレビ番組やタレントの話題になったとき、私がテレビ持ってないと知ると、驚いて大騒ぎする人が時々いるのですが、私のほうこそ、なんでテレビがないことがそんな驚くことなのか、と、不思議に思う。人によっては、会うたびに、私の家にテレビがないことをネタに周囲巻き込んで騒ぎ立てたがる人もいるのだけど、そういうのはもううんざりだなー。あんた人の家の電化製品のこととやかく言うんだったら、そんな大好きなテレビと心中すれば、と、言いたくなっちゃう。
 私も、20代の頃は、朝起きてテレビつけてニュース見て、帰宅すればテレビ見ながら夕ご飯、ということもあったし、銭湯のロビーでテレビがついていれば、ソファーに座ってちょこっと見ていくこともあるけれど、自宅になきゃないで全く不便を感じないし、テレビ番組を見ないことで、他人と価値観を共有できないとか、大切なことを見逃しているとか、そう考えるのはまったく馬鹿げてると思う。時々、「テレビが家にないなら、家で一体何してるの」と訊かれるのですが、そう訊いてくる人ってもしかして家でテレビ見ることしかしてないのかな、と、びっくりしてしまう。まさかなあ。
 テレビを見ている人を非難してるわけじゃないんです、別に。そういうことじゃなくて、今の世の中って、どうして、人と違うことしてると、驚かれたり騒がれたり、挙げ句非難されたり説教されたりするんだろう、と。
 テレビを持ってないこと、銭湯暮らししてること、1人で呑みに行くこと、等々。なんか、自分と違う行動パターン持ってる人に対して、いくら理解できないからって、「それっておかしいよ」「間違ってるよ」「○○すべきだよ」って、指図する人が案外多いのには、閉口する。私は私であって、あなたじゃないんです、と、いつも心の中で反論しながら、表面上は「あーはいはい」とやりすごす。他人と違うことがヘンだとされる世の中こそ、相当ヘンだ。私がうだうだ書いている日記を読んでくださっている方は、「あたろー毎日楽しそうだよなー」と笑ってくださっていると思うのですが、どうも、いつもありがとうございます、って、あらなんのこっちゃ、えっと、つまり、みんな同じだったら、つまんないよー、って、そう思いますよね。
 他人と違うってことがあって、当然。誰にでも、どこかしら、他人と違う部分がある。なのに、何故か後ろ指さされる時代。
 「うるさい、ほっとけ!」と言いたくなる、時々。いちいち対応するのが馬鹿馬鹿しくなる。なんか生きづらいよなあ。って思ってる人は、沢山いるはず。
 あー、ここに書いたら、ちょいとすっきりしました。 
 今日は愚痴っぽい日記になっちゃった。


2006年11月27日(月) 百�寮萓犬痢慘�腹帖』と、イベリコ豚君。

 旧暦10月7日。
 西班牙へ旅してた友人からお土産にイベリコ豚のパテを貰ったので、早く帰って買い置きの赤ワインを呑みながら、内田百�痢慘�腹帖』(ちくま文庫)の続きを読もう、と、残業早めに切り上げる。途中、美味しいフランスパンもしくは堅めのドイツパンなんぞ買って、スライスしてその上にパテを塗ろうと、乗換駅の神保町でいったん外に出る。私の知る限り、神保町には美味しいパン屋さんというものが見当たらないので、すずらん通りの自然食品スーパーで、ルヴァンの天然酵母パンを買おうとおもったのだけど、すでに売り切れ。ありゃりゃと思い、しかし気を取り直して、三省堂にちょっと寄ってみる。2階の文庫売り場で、『贋物漫遊記』(種村季弘/ちくま文庫)『江戸東京《奇想》徘徊記』(種村季弘/朝日文庫)を買う。買ってしまう。だったら土曜に寄ったときに一緒に買えばよかったのに。。。と、ちょっと反省。どちらも復刊。
 結局神保町でパンは買えずに、自宅近くでクラコット(全粒粉のクラッカー)を買い、そこにイベリコさんを塗って、ほうれん草やブロッコリーを入れたオムレツを作り、ワインの栓を開ける。ワインは、「South Hill Shiraz」というちょっと濃厚なオーストラリアの赤ワイン。・・・セブンイレブンで買ったんじゃよ。

 百�寮萓検弊い涼罎棒萓犬噺討个譴訖諭△泙晋討个譴燭た佑�沢山いすぎてうんざり、先生という呼び方は嫌いだけど、百�寮萓犬世韻亙漫∪萓検△箸弔韻燭�なる)って、相変わらず、真面目くさって苦虫噛み潰したような顔していながら、こちらが吹き出すようなことばかり書いているから、好きだ。
鉄道が大好きな先生、車中でせっかく書いた傑作の俳句十数句、窓を開けようとして車外に吹き飛ばしてしまうし、あんまりみすぼらしい格好では、と、旅行の前に神田で買ったずぼん、実は縫ったのではなくて糊で貼り合わせてあったらしく、寝台車中でスネから股にかけて裂けてしまった。しかたなく、寝間着用に持っていた浴衣に帯皮を締め、パナマ帽に赤皮の編上靴という出で立ちで下車し宿屋についた、等々。意外に気が小さくて、意外にのんき。飄々としているようで結構繊細。それと、いかんせん、ウジウジ悩む。真面目とユーモアの境界が分からない先生の日常。夏目漱石門下で、陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学で教鞭を執った。ついでに、いつも借金だらけで大貧乏。あ、それから、猫好き。いなくなった愛猫を思い続ける『ノラや』は、猫好きな読者にはツライ。
 内田百�寮萓犬涼�作は、ちくま文庫に全集(24冊)ある。が、これは全部新かなづかい(でもちょこっとずつ買い足しています)。百�寮萓犬諒絃呂蓮�旧かなづかいのほうが断然味わい深いような気がする。新潮文庫にも『第一阿房列車』等数冊。これも新かなづかい。残念。岩波文庫には『東京日記』などが。哀しやこれも新かなづかい。中公文庫『ノラや』『御馳走帖』など3冊ほど(だったかと)は旧かなづかい。旧かなが好きなのでこちらも入手していて時々読んで悦に入っています。あと、古書店でわりと見つけやすいのが、福武文庫と旺文社文庫。福武文庫は新かな、旺文社文庫が旧かなづかいで、実は一番好きなのですが、人気があるせいか、古書店でも高め。500円前後が相場、場合によっては1000円近いこともあるみたいです。旺文社文庫は、安藤鶴夫など、いいタイトル沢山あったんだな。あーあ、復活してくれないかなあ!
 

 


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