度々旅
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土曜日に実家へ帰り、少しいざこざがあった。いつものことだけれど、こういうことは、やはりこたえる。
金曜日の夜に、大学時代の仲間の一人から1年ぶりくらいに連絡があった。そして、土曜の夜には、他の一人から電話へ留守電があった。
まるで、彼らは私が落ち込むことを知っていたかのように、うまいタイミングで私を思い出し、別にどうでも良い話をするために、連絡をよこしていた。しかし、その電話によって、私には彼らがいるという安心感をもたらしてくれた。特別何かを話すわけではないけれど、互いの存在確認のみによって、ただ安心させられたり、支えられたりする。このような仲間がいて良かった。
未だ一緒に大学に残っている友人は、今年論文が書けずじまいで、途方に暮れていた。いつもの通り、基本的に私はほおっておいた。一ヶ月の間数回メールを送ったが、彼女からの返信はなかった。そして、やっと数日前に返信があり、生き返ったらしいので、会った。
彼女が言うには、私からのメールのタイミングのよさに驚いたという。短いメールなのに、彼女が思っていることとぴったり合っていて、それはもう、私が彼女が何を今考えているのかがわかっているかのようだったというのだ。そして、「あんた、すごいよ。助けられたよ。」と言ってくれた。
私が何の気なしに送ったメールは、彼女を助けていた。それも、別に彼女のことを思って書いた内容でもない。そして、今回仲間からの私への電話も、別段私のためにかけてきた電話でもない。
でも、根っこでつながっていた仲間というのは、こういうものなのかもしれないと思った。そして、こういうものだから、やっぱりこの人たちは、大切な仲間なのかもしれないとも思った。
日本語は、やっぱり難しい。というよりも、あたしの日本語能力のなさが、ひどいのだ。
だから、ただでさえ日本語下手な私が、案に誰かに何かを伝えたいと思って文章を書いたり、言葉を発したりするなんて、やめた方が無難なようだ。伝えたいことは、直接相手に、伝えなければ駄目だな。
ちょっと、反省したのでした。
リアル感が乏しいまま、生きていると、時々感じる。けれども、そのリアル感というものが何かわかっているわけではない。ただ、こういうものだろうと勝手に思っているだけだ。
何らかのリアル感を要求されながら、日々を過ごしている。その要求されているものとは、何なのであろうか。それこそ、虚像に過ぎないのではないだろうか。
私自身が今いる、感じている、リアル感がないと感じている、それこそが、リアルなものであり、それを反省し続けることは、単なる無限後退に陥るだけに違いない。一度反省してしまうと、それは反省以前より薄い感覚、概念になってしまう。ならば、反省などしなければ良いではないかと思うのだが、そうもいかない。生きていて、何かを考えている限り、反省は付随してしまう。
無限後退に陥らないためには、どこかに確信を持たなければならない。その確信は、私が今ここにいる、私は私を見つめている、自分を信じている、自分に対する信頼、自分への信、と、再び、確信のない信の無限後退に陥ってしまうようだ。
果たして、信とは基礎付け可能なものなのであろうか。普遍的であり、永続的な基礎付けは結局のところ、無理なのではないだろうか。
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