度々旅
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過去を思い出させられたここ最近。2週間程まえに、高校の友人からきた電話。浪人時代の友人の写真展。大学時代の友人がとまりにきた。旅先でで会った夫妻からの手紙。そして浪人の時の友人との食事。 どの人も、今の私をつくってくれた人たち。私の中に、確実に編みこまれている人たち。私という人間を編んでくれた人たち。 きっと、私は意識的にではないにせよ、それぞれの人たちに違う顔を見せていたことだろう。彼ら彼女らが知っている私は、同一人物だけれど少しずつ違うに違いない。それぞれの人と共有した時間を思い出しながら、少し今の自分との距離を感じる。その距離が、良いものか悪いものか私にはわからない。もしかしたら、とんでもなくひどい方向に行っているような気もする。まるで、過去の自分を他人を見るような目で見ている私。決して過去の自分を否定するわけではないけれど、そして、過去の自分と私が何が違うのかと言われれば困るけれど、何かとても距離を感じているのは事実だ。 私は感受性が強いと言われていた。そんな私は、気づいたら自分の感情を出来るだけ殺すようになっていたように思う。感情的になるのは、感情をストレートに出すのは、裸になるようで恥ずかしいと思うようになっていた。嬉しい、ありがとう、という気持ちを表すのは別としての話だが。悲しいとか、悔しいとか、怒りといったものは、出来る限り押し殺していた。そのうちに、私は自分自身のそういう感情と距離をとるようになっていた。そして、そういう感情がどういうものかよくわからなくなっている。 しかし、そうはいっても、はやり人間なのだから、悲しいなどの感情はどこかで感じているわけで、時々思いがけないところで、涙が出そうになってしまったりする。まるで、普段無視されていた感情が氾濫を起こすようなかんじだ。悲しいのだか、悔しいのだか、なんなのかわからないものが洪水のように湧き上がり、私はその感情をコントロールすることができず、ただただ恥ずかしいと思いながら涙と一緒に垂れ流す。 「感情の垂れ流し」という言葉を私にくれた人は、もう自分では何なのかわからない感情を、いつでもそのまま飲み込んでくれて、消化してくれて、次の栄養を私に与えてくれた人だ。過去の出会いをたどりながら、以前にもまして、自分の感情を出さなくなっている自分に、本当はそんなものを完全にどこかへ置いてきてしまったのではないかと不安になってみたり、その置いてきた感情がいつかどこかでとんでもない氾濫になるのではないかと怖くなってみたり。けれど、もしかしたら、自分でも気づかない方法で、うまく垂れ流してコントロールできるようになっているのではないかと、少し期待してみたりするのだった。
久しぶりに、生演奏を聞いた。実家の最寄の駅には、ジャズ喫茶がある。この店がジャズ喫茶であると気付いたのも、その店に初めて入ったのも受験生の時だった。初めての時、とてもドキドキしたのを覚えている。そのときから、そこは私の隠れ家のようになった。地元というのは、どこにいても誰かに見つけられてしまうという心地悪さがあるのだが、この店では今のところ知っている人とは出くわさないのだ。そこは、地元にある私だけが知っている異世界というかんじだった。 一人暮らしを始めてからは、実家に帰った時に時々覗きに行くくらいになった。で、今日実家に帰ってきたので、夜にフラフラと自転車で徘徊がてら、覗いてみると、なんとまぁライブやっているでないの。以前は毎週末ライブをやっていたのだが、一時期あまりやらなくなった。けれど、どうやらまた復活したらしい。演奏中、店先から子供たちの声がした。振り返ってみると、店先で10人くらいの子供が雨宿りをしながら、店のガラスのドアにへばりついて、中を覗いていた。マスターは、ドアを開けっぱなしにして、子供たちに演奏を聞かせてあげることにしたのだが、子供たちは、すぐに自分たちでドアを閉めてしまった。きっと、ドアごしに覗いた店内は、独特の雰囲気で、あの子たちにとっては大人の世界のように見えて興味深々だったのだろう。けれど、いざそのドアが開いてしまったら、尻込みしてしまったに違いない。 そう。私も、この店がジャズ喫茶であると気付いてから、店の中に入るまで数日かかった。たぶん、あの時の緊張のような未知の世界に入るような感覚が今も残っているから、あの店は私にとって、特別な隠れ家のような場所としてあり続けているのだろう。といっても、最近は親にばれてしまった隠れ家なのだけれど。
さて、これからの1週間はちょっと特別な週なのだ。ちょっと気合を入れて過ごさねば。
家でテレビをつけっぱなしだ。もっぱらNHKなのだけれど。常々民放の報道に御不満を感じているのだけれど。なんで、無駄に音楽をバックに流すかなぁ。ニュースの時間いっぱい、緊張感をたかめるというか、煽るというか。で、それはある種のマインドコントロールみたいな効果も与えているようで、見ている側に考える時間をあまり与えてくれない。それでいて、ニュースの時間が終わるとあっさりと、お笑い番組などを流す。いや、お笑い番組が悪いのではなくて、報道という枠でやっている番組をショーにしすぎだよなと不満なのだ。これに対して、NHKは淡々とやっていて、良いなと。地震などが起きたときも、NHKは淡々と。他では、もうこの世は終わり!みたいな。NHKは見ていて、考える時間を与えてくれて良い。 朝のニュースの時間帯も、NHKと他局の違いは大きくて、なんだか民放を見ていると、すごく急がされているようで、NHKだと、ああ、朝だなぁ。気持ちが良いなぁなんてゆったりとした気持ちになる。 ついでにいえば、20日はテレ東以外の民放は、基本的にずっとイラク攻撃を流していたのに、ゴールデンタイムになった途端に通常番組に戻った。いかに、昼間の通常番組が再放送など実のない番組であるかということを示すと共に、イラク攻撃も視聴率のための報道なのだなと感じさせられる。多くの人の関心が多いうちは、がしがしと同じような内容を流し。けれど、ある程度あきられたら、あっさりと通常番組に戻す?みたいな。 もちろん、常に新しいことが生じているわけではないから、ずっと流す必要はない。ゴールデンタイムに一斉通常番組へ戻る姿勢は、あとはNHKたのんだ!って声が聞こえるようだった。 そんなたのまれたNHKも大変だよな。新しいことが起きない時間も、延々とやっていて。武田アナが好きだからいいんだけれどさ。
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