度々旅
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カラーボックスの背中が外れているのを拾ってきた。横にして、机に上においてみた。かなりいい。机といっても、板のただのテーブルなので、何もなくて棚とか欲しいなぁと思ってた。上の部分がもったいないなぁと。けれど、高さや使い心地がわからないのに、わざわざカラーボックス買うのもなんだしなぁと思ってた。そう、前からカラーボックス棚を作ろうと思っていたのだ。そうしたら、落ちていた。念願のカラーボックス。そのうえ、都合がよいことに背中部分がはずれてる。 部屋に持って帰ってきて、段を一つはずして机の上においてみた。うまい具合に、二段分のスペースのところにパソコンの画面が入る。で、あいたもう一段の部分にメモ帳やらなんやら置いてみた。そして、上に辞書やら電気スタンドやら置いてみた。もう完璧である。市販の机の使い心地なんか、比べものにならない。 あたしの机やら本棚との長い戦いは、やっと終わりを迎えたようである。ここのところの原稿書きで、本が出しっぱなしで、本棚の中もぐちゃぐちゃになりつつあるのは気になるが、とにかく長い戦いは終わったのだ。
目的地にたどりついたと思った私の旅は、まったく違う道を行っていたようで、再び途中地点に戻りつつあります。あれまぁ。時間があるからって、どうにでもなるもんじゃないです。地図を片手に、地図の間違えを見つけることもできずに、ただただ地図どおりに歩いて「天国」って場所についたとしても、そこはあたしにとっての天国なわけではありません。あたしは、地図の間違えを探して、あたしが探している天国に行かなければなりません。 そういう日々を送ってます
こんばんは。今日は夜の日記です。原稿の方はまだ仕上がっておりませんが、だんだん楽しいかんじになってきました。テキストに書いてある主張を自分でうまく使えるようになると、いろいろ見えてきます。その時点でやっと著者に対する反論が生まれてきたりするわけですが、ここまでが長かった。もう完全に引きずられっぱなしで昨日あたりまできました。やっと、自分の言葉で話せる段階になってきました。その段階になって、ああこの勉強やっていて楽しいなと思えるようになった次第です。久しぶりの感覚です。 いつも文章を書くとき思うのですが、本当に物書きの人は身を削っているなと。昔からそうなのですが、少し長い文章を書くときは完全に頭の中はそれでいっぱいになったりします。だから身近な問題も、そこに結びつけて考えるようになってしまいます。そうすると、だんだん文章の方にも身近な問題の解決部分が入ってきてしまいます。こうなると、出来上がった文章はそのときの私の人格みたいなものがそのまま出てしまって、それが否定されるともう、自分の人格やら人生そのものが否定された気分になってきてしまいます。そういう意味で、文章書く人は身を削っているなと。 本当はそういう書き方はよくないのかもしれませんが、何せあたしは他の人のためではなく自分のために文章を書いているわけですので、しょうがありません。あたしが幸せになるために、今の勉強を選んだともいえます。なのに、なかなか自分の言葉が発することができない段階は非常に苦しくて、あああ、幸せになるためにやっているのに、不幸だよ・・・と思いますが、やっと楽しい段階に入ってきてほっとしています。 そして、この段階に入ってくると周りにあるいろんなものがヒントになります。そして、それらを解決するために、いろいろ頭がこねくりまわされて、きっとこの原稿を書き上げたときには、新しいあたしが出来上がっているのかもしれないなんて思ってしまったりします。大学受験の時、小論文だけは異様に得意だったのを覚えています。書くときに同時に、そのとき悩んでいたことや身の回りの問題を一緒に解決できたり、深く考えることができて、楽しかったのを覚えています。それでいて、よい評価がもらえたりなんかして、一石二鳥だわと思っていました。もしかすると、今やっている勉強の原点はあのとき書いていた小論文にあるのかもしれない。もともと理系に進むはずのあたしが、今の分野の勉強をしているのは、あのときがあったからなのかもしれない。そう思うと、浪人をしていなければ、私はこの勉強にあうことがなかっただろうな。どこに、どんな出会いやら道があるかわからないものだなと思うのでした。
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