度々旅
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なんだか、やることは沢山あるのに、何から始めてよいかわからず、ボケーと過ごす。旅に行くために冷蔵庫の中身は空っぽにしていたので、昨日は食料を買いにとりあえず買い物へ。てくてく歩く。暖かい。梅の蕾がふくらんでいるどころではなく、咲いていた。いつも行く雑貨屋で、祖父のために水とお茶の入れ物を買った。ついでに小皿も買った。ちょっとママゴト気分だ。ふらふら店内を見ていたら、あれま、かわいらしいお洋服。買っちまった。あたしと好みの合う店員が奥から持ってきてくれた服にも一目ぼれして買っちまった。そちらは母へのプレゼント。この店員、危険すぎる。好みが合いすぎる。以前も買うつもりがなかったのに、店員がどこからか持ってきたものに一目ぼれして買ってしまった。店員が持ってこなければ、気付かなかったものを。。。というか、貴方が着てる服いつも欲しくなる。やっぱり、売り子が売り物を着ているって、購買増進に貢献してるんだ。 帰ってきてからも、相変わらず何もやる気がしないので、料理をする。こういうときは、料理だけはがんばってみる。カボチャをもらったので、丸ごとグラタンにした。鳥のモモ肉が安かったので、から揚げもつくった。小松菜と油揚げと納豆を和えたら美味しかった。あとは、文春、新潮を読んでごろごろ。何から始めてよいかわからないときのあたしのパターンだ。 けれど今日は、なんとか午前中からテキスト読みを再開。午後は散歩。楳図かずおの漫画を見つけたので、友人に買う。タイキャンセルのお詫びにあげよう。 さて今日は切干大根を作って、あとは塩サバをいじくってみよう。そういや、プランタの水菜はいない間に新しい芽が出ていた。前のヤツらは寒さに負けて全滅してた。さて、これから元気に育つのでしょうか。。。
とりあえず、アパートに戻ってまいりました。先週は、本当に天気がよい日が続き気持ちがよかったです。寂しくなった実家に、以前よりは帰らねばなと思っております。今年は論文だけだから、完全に帰ろうかなとも思いましたが、指導教授も復活することだし、授業も結局はとるし、その他いろいろ思うところがありやめました。 母は、祖母と祖父あわせて10年間介護してました。だから、介護が終わったらあれしよう、これしようと言ってはおりましたが、やっぱり何をしてよいかわからない日が当分続きそうです。なにせ、10年。。。長すぎる。母は、父方の祖母からは望まれずに嫁入りしました。結納の席でも、祖母は一口も膳に口をつけず、途中で帰っていったそうです。どうやら、祖母は父に結婚させたい人がいたそうな。そんな中嫁いだ母は、ずっとのけ者扱いでした。祖母は何かと伯母と母を比べ、老後も娘に見てもらうと言っていたようです。私自身は感じませんでしたが、ご近所では息子がかわいいが孫はかわいくないと言っていたそうな。ま、私のことですな。 けれど、伯母が旦那様と死別し、その後人の旦那様と再婚。その人が破産。叔父は、その保証人になっておりました。その叔父も、再婚で前妻には何度も子供をおろさせ、その間も他の女性と付き合い、その人を父に紹介するような人でした。子供をおろす度に、祖母は叔父のもとに駆けつけていたそうです。破産のとき、結局力を貸したのは、父と母でした。夜逃げしてきた伯母家族を囲い、弁護士も私の友人のお父様にたのみ、自殺しようと逃げた伯母の旦那様を探し出したのも父と母でした。その頃、すでに祖母は呆け始めていたのですが、母に「これからは仲良くしましょうね」と手紙をくれたそうです。 そんな祖母の葬儀で、母も私も相変わらず除け者にされてました。同居していたにも関わらず。だから、今回、当たり前のことかもしれないけれど、母が遺影、私が骨を持って帰ってこれたことはとても嬉しいことでした。父が兄弟に気を使い、遺影を母に持たせるということをなかなか言い出さなかったので、私は父に最後はみんなのことがわからなくなった祖父が、母のことだけはわかっていた。だから、持たせて欲しいと頼んだ結果のことでした。父も、そのつもりではあったのでしょうが、なかなか言い出せなかったのです。叔父からは、以前葬儀の席のことで、喪主の妻や娘が喪主の横に来るのは田舎のやり方だ。そんなこと気にしているなんて頭がおかしいと母に言いました。伯母家族が破産したときも、祖母が入院したときも一円もお金を出さず、すべて口だけでした。挙句の果てに、保証人にならなければならなかったのは、私の両親のせいだと言い出す始末でした。 私は生まれてからずっと何も祝ってもらえず、初めて祝いということを叔父からしてもらったのが、進学校の中学に入ったときです。そういう物差しでしか人を見れないなんて、本当にかわいそうな人だなと思うことで、自分を納得させていました。正月に来たときに、殆ど相手にされないのも、そう思って過ごしていました。自分で、何かを言えるようになったのは、ここ最近のことです。 どうして、こんな人に母も私も除け者にされ、母はずっと黙っていられたのだろうと。祖母にもひどい仕打ちをうけながら、祖母を最後までどうして母はみることができたのだろう。ずっと思っていました。「大切な人の大切な人だから」母は、それだけで今まで30年間耐えてきていたのです。 そんな全てのことが、やっと終わった気がします。悔いなく送り出せたと言った母。そして、なんでも祖父と一緒に行った私。大学に入り一人暮らししてからも、祖父の実家へ行き、このアパートに来てもらったり、桜の季節に大学を案内したり。家族で出かけるのも、必ず祖父も必ず一緒でした。母も私も、辛いことはたくさんあったけれど、祖父との思い出はたくさんすぎるほどあります。母は、父の兄弟に感謝されるためにやったのではなく、自分が満足するため、悔いないための介護でした。だから、何も言ってもらえなくてもしょうがないと思ってます。私も母も、悔いなく、たくさんの思い出を持っているので、幸せだと思います。もちろん、父も。 人に理解してもらえるのは、支えられ、助けられているという気持ちになれるようです。後悔ないというのは、幸せな気持ちになれるようです。 ここ、数日だいぶ旅から離れた日記を書いて申し訳ありませんでした。テーマは違いすぎるし、恨みみたいなものが、どうしても抜け出せない文章になっていて、人を不快にさせているのではないかと不安でした。けれど、皆様からお気遣いいただき、私の日記から、何かを思って文章も書いてくださった方もおりました。ありがとうございます。これで、今回のことは終わりにしたいと思います。 あ、でもまだ思い出が時々出てきてしまうと思います。それは、ご了承ください。
祖父のことで、いろいろな方からお言葉を掛けて戴きました。この場を借りまして、改めて御礼致します。ありがとうございました。葬儀、告別式と終わり、しっかりと見送ることができました。祖父は、89歳で、今年の夏には90歳を迎えるはずでした。もう、15年以上前から、「じいちゃんは、もうすぐ死ぬんだからな」と言っておりましたが、入院しても元気に戻ってきてくれていて、こうやって100歳越えるんではないかと思っていました。なんだかんだ言っても、私の子供を見れるまで生きていてくれるのではないかと思っておりました。去年の脳梗塞から、だいぶ壊れてしまって、歩くこともできず、私のことをわかってくれたのも、本当に数回でしたが、それでも、自分で食事をとり、もりもり食べていたこともあり、本当にこのまま生きていてくれると思ってました。だから、なんでこのタイミング?というかんじなのです。まだ、いてくれても良かったんじゃないの?どうして今いなくなるのさと。 けれど、インドに行ったときに、インドの家族から腕に巻いてもらってずっとつけていた紐が、私が祖父に最後に会った日に切れたことを思い出しました。そして、ある意味、すごい計算してこの日を選んで祖父は亡くなってしまったんではないか?と思えることに気付きました。友引や、寺の関係で、葬儀の日まで日があり、施設から自宅に帰ってきて3泊することができました。ずっと祖父は家に帰ってきたかったのです。また、本来ならば、私はタイに行っていたわけで、裏を返せばまるまる予定が空いていたわけです。葬儀を手伝ってくれた私の友人は、祖父に会ったことがあり、彼とタイにも行くはずでした。その彼は、日曜日に出勤しており、会社帰りに家に帰ってきてくれたばかりの祖父に会いにきてくれました。もし出勤してなかったら、彼はわざわざ会いに来てくれるような人ではありません。そして、タイに行くために会社を休む予定でしたから、会社を休んで葬儀も手伝ってもらえました。最後に驚いたのは、祖父の戒名に、その友人の一文字が入っていたことです。祖父の名前からとった一文字の上に。私にとって一番大切な人が祖父でした。だから、祖父は新しい名前の中に友人の一文字を入れることによって、今度はこの友人を大切にするよう教えてくれたような気がしました。その他にも、アメリカに住んでいるいとこがずっと子供に恵まれなかったのが昨年生まれ、もう一人にいとこも結婚する相手とめぐり合うことができ、私と両親の仲もだいぶ良くなり安定してきていました。 そんなこんなで、安心して出発してくれたのかもしれないと思います。 祖父の骨は骨壷に入りきらない程の量で、棺おけに入れるときも苦労しました。89歳にしては、身長は高く、骨もとてもしっかりと太いものでした。それらはすべて、父や母の看護のおかげで本当に感謝してます。 葬儀には、父の会社の人がお断りしたにも関わらず大勢かけつけてくれ、母の友人も大勢来てくれ、両親がどれだけ多くの人に助けられ、そして愛されているかを知ることができ誇りに思うことできました。祖父のためにあれだけ大勢の人が泣いてくれて本当にありがとうという気持ちでいっぱいでした。父の姉が最後に母に正座して「長いことありがとうございました」と言ってくださり、今まで本当に母は感謝の言葉をもらえずにいたので、私は嬉しかったです。施設に祖父が入ってからも、母は毎日犬と一緒に施設に通い、祖父だけに声を掛けるのでは、他の方が良い気持ちをしないと、みんなに声を掛け、名前を呼び会話してました。普通できることではないなと思います。だから、後日施設に伺ったときに、老人から祖父はどうした?と聞かれ、こうやって入れ替わり激しい施設で痴呆老人から祖父が心配してもらえるのは、全て母、そして父の祖父への周囲への配慮のおかげだなと思いました。 葬儀に来てくださった方々から、母はよくやったよ、悔いはないはずだよと言葉を掛けていただき、本当に私はこの母、そして父の下で生まれ育ったことを誇りに思います。 これからも、祖父と行ったことがある場所、一緒に食べた物、いろいろなことによって祖父を思い出すと思います。どこかへ行ったときに土産を選べないこと、クリスマスや誕生日、バレンタインにあげる相手がいないこと。そういうことで、寂しくなります。一番大切な人を失うというのは、悲しいというより、寂しいのだ、横にいない、気にする相手がいないってのはこんなに寂しいことなのだと痛感です。けれど、まだ祖父に出された課題はたくさんあるということも思い出し、頑張ろうと思ってます。 そういえば、祖父が骨になって帰ってきたとき、犬が出迎え、祖父を抱えている私に一番最初にとびつきました。ちなみに、犬と私は不仲で、あれだけ大勢の中でいろんな人のところをうろうろして私のところにやってきたことに驚きました。祖父は呆けてからも犬のおかげで散歩できていました。犬は後ろを振り返りながら祖父の歩調に合わせて歩き、ちゃんと連れ帰ってくるのです。そして、土手では大勢の方がそんな祖父に声を掛けてくれていました。○○君のおじいちゃんと。祖父が知らない人から写真をもらったと祖父と犬の写真を持ち帰ってきたことがあります。土手で祖父のことを見守ってくださっていた方です。その方とは、縁があり、今ではとても親しくしてますが、その写真がその方がとってくれたことを葬儀の場で知りました。そして、その方が祖父が旅立つときの浴衣を縫ってくれました。 そうやって、いろいろな人に生かされ、助けられ人間は生きていくことを学びました。祖父が残してくれたものは、とても大きいです。 長くなりましたが、皆様、お気遣いしていただき、ありがとうございました。
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