度々旅
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口頭試問が終わったので、やっと本棚の中身をダンボールに移し始める。が、本棚ってスゴイのね。ダンボール足りないよ。見た目そんなに無いと思っていたのに、予想の倍はある。それも、ハードカバーばかりなので、すげぇ重い。嫌になった。辞典類だけで、ダンボールでかいの一箱になると思わなかった。先が思いやられる。 で、今日も相変わらずダンボール一箱分くらいの紙ゴミ発生。どんだけ、紙のゴミを溜め込んでいるんだよ!と。 先輩が、自分の部屋は自分のためにあるのではなく本のためにあるんだなと思うときがあり、悲しくなると言ってたが、なる程と思った。教授がどんな本もパソコンで見れるようになることを望んでいるのもわかった。本が少ないあたしでさえ、こんなヒドイ量なんだから、研究書だらけの彼らの部屋や家はとんでもないことになっているんだろうな・・・・。 教授は、書庫を新しく作ったけれどすぐに入らなくなり、階段も全部埋まり、どうしようもないことになっていて、どこに何があるかもわからず、買った本を見つけられずにまた買ったりしてた。人間って、一生のうちにどれだけの本を手にしているんだろう。
論文を提出して一ヶ月半近く。とうとうこの日がやってきた。口頭試問の日である。長かった学生生活のしめくくり。1時間半の集団リンチ、もとい教授達との面接。恐れていた程のことはなく、なんとかやり遂げた。 面接官のうち、二人の教授は、卒論のときの口頭試問と同じ教授。あの頃より成長し、勉強し、考えることができるようになったと言われたのは嬉しかった。そして、「面白かった」この一言をもらえた。もちろん、たくさんの注意を受け、指摘を受け、批判を受け、整合性に欠けている点を指摘され、納得するところもあり、自分の未熟さを感じるところもあったが、最終的に述べたかったことを述べた満足感は格別だ。 指導教授じゃなかったのに、あたしの卒論を一人の教授が覚えてくれていたことも嬉しかった。そして、一貫して一つのことに拘って研究していたということを評価してくれたのは有難かった。指導教授からは、この話は難しいのでこれだけで言おうとすること自体に無理があり、それゆえに整合性に欠ける点が出てきているように思うと言われた。それは、自分でも感じていて、この話をこんな簡単にまとめるべきではないし、実際にはまとめることができないとは思っていた。けれども何かの形にはしたいし、どうしても一歩でもこの研究を進めたかった。あまりにもでっかい題材なので、何度も離れようと思ったが、違うことをやりながらも結局そこに辿りついてしまい、題材というか、研究目的は結局卒論のときと同じことになってしまった。指導教授はそれを執念と言ってた。そうかもしれない。なんで、このことに拘っているのか、なぜこのことに拘ってしまうのかわからないけれど、あたしはどうしてもそのことを考えたかった。難しいと何度も言われたけれど、逃げずにやったということは今後の自分にとっても大きい。 最後に「今後もこのことを考えていくのですか?」と教授に言われ、「たぶんずっと考えていくことになると思います」と言ったとき、ニコっと笑った指導教官の顔は忘れられない。あたしがやっている学問はそういう学問だ。答えがない。だから、いつまでも続いていく。そして、いつまでもすっきりしない。論文を書き終えたときも、今日も終わったという実感はない。論文を書くことは一歩歩いただけで、それが前か後ろかもわからない。 ただ、少し寂しさがある。もう追われない、必死に考えることを強要されないという寂しさだと思う。今後考え続けたとしても、それをどこかに出さなければ批判もされず、自慰行為にすぎないかもしれないという寂しさなのかもしれない。 面接の後の研究室で、改めて一人の教授に面白かったと言われたのは本当に嬉しかった。先輩に、野心のない論文は最低だと言われた。未熟なあたしが、野心だけは捨てずに、諦めずに、その未熟さの中でもがきながら述べた言葉。それを読んでもらい、批判してもらい、評価してもらえた喜びは大きい。
引越しに向けて少しでもと思って整理していたら、あたしの部屋で一番のゴミは紙であることが判明。いやぁ、こんなに紙を溜め込んでいたんだね。テキストのコピーやら、人のレジュメやら。とにもかくにも、ありすぎ。一生見ないと思いつつも、人が書いたものを思ったら捨てられず、けれどこの期に捨てなければどうしようもないぞと次から次へと紙袋に入れていたら、すぐにパンク。昨日、高さ50センチ程にまとめた紙ゴミが出たのに、今日もまたわんさかでてきた。ああ、テキストはコピーするもんじゃないね。で、ああ、この資料はいい資料だなんて思いつつ、いや、今まであることさえ忘れていたのだからいらないのだ!と思い切って捨てる。 ちゃんと整理しておかないといけないねぇ。どんなに良い資料も、どこにあったかわからなければ、無いと同じ。 そういや、小学校の教科書とかもなんとなく実家にたくさんとってある。あたしはモノを捨てられないらしい。それも、文字が書いてあるものは特に。。。 けれど、そんなあたしでも学部が終わったとき、卒論に使った以外の資料やら紙やらは殆ど残っていなかった。授業をまともに受けてなかったので、毎度毎度捨てることに抵抗がなかったらしい。となると、これだけ紙を溜め込んだってことは、少しは勉強していたことの証のようだ。
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