薔薇園コアラの秘密日記

2004年11月17日(水) 夜更かしついでに・・・

 水曜日は終日、びっしり予定がつまっているので、今の内に日記を更新。

 最近、自宅にかかってくる電話の半分は、外国人になった。
 だから、受話器をとって第一声が、

「Ya hello?  もしもしっ?」
と、ドイツ語やら英語やら日本語やら、立て続けに言語を発する。

 今日は、確実にドイツ語圏の友達からかかってくることになっていたので、頭ン中ドイツ語モード。かかってきた電話に、ついついドイツ風にフルネームで応対してしまった。

「Ya、Yuko ○○○○da?(一応苗字は伏せておく)」
「……」
「Ya hello?  もしもしっ?」
「……。(絶句)……ん、あのぉ……。」

 げ、日本人。しかも男の人。上ずった声の。
 すぐに誰だか判明。なんとなんと、それは息子の担任の先生からだった。
 伝達があって、わざわざ電話を下さった。

 いつもは、
「はい、もしもし〜、○田ですぅ」
と、ノーテンキな声で日本的に受話器をとる私が、いきなりアチャラ風に出たものだから、担任の先生、びっくりされたようだ。

 電話口でしどろもどろ。ただでさえ、受け持ち児童の自宅に電話するのは緊張されるものだろうに。

 慌てて日本語モードに切り替えて、先生からの用件を伺ったけど、いつもになくお互いぎこちない応対であった。

 先生、よっぽどびっくりされたんだろうなぁ……。

 電話を切ったあと、職員室の椅子にもたれて、どっひゃり疲れた先生の様子が、まざまざと目に浮かぶ。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *

 追記

 今朝から、ばたばたいろいろんなことをこなした。

 で、お昼から、Hotel MariottでIWGのNew Comer's Lunch
 私は新会員ではないけれど、今年はなんだかんだとIWGに関わりがあるので出席した。参加者50名。くじ引きで席を決め、円卓に着いた。

 ビュッフェの前菜類、特にささみのマリネが上品な味で美味しかった。

 途中でナイジェリア大使館員がナイジェリア文化の民族衣装を披露してくれ、とても盛り上がった。ターバンを巻くデモンストレーションをしてくれた。

 同じテーブルだったナイジェリア人のNaomiさんと親しくなった。
 
 ここでまた、私の無知を晒してしまうようだけどさー。
 ナオミって、聖書にでてくる人なんですってねー。
 わたし、てっきり、ニッポン人・ナオミに憧れて、ナオミという名前が、外国で流行っているのかと思ってた。

 モデルのナオミ・キャンベルも日系人だと思ってたのよ。ずっと。
 
 ナオミの日本語の意味は、honest, straight and beautiful! と言っておいたんだけど、それでよかったかな、日本全国のナオミさん方?

 ナイジェリアのナオミさんは、それを聞いて大ご満悦だったけど。
「In Nigeria, too」
だってさ。

 ナオミさんの横の女性は、顔に黒いドウランを塗った「夏川リミ」かと見間違えるほど、よーく似ていました。キュートな黒い顔つきで。

 ほかはねー、有閑金満マダム達がいっぱい……。
 今年の会員は、今までとちょっと雰囲気が違って、ちょっとハイソな感じ。
 アジア人が少なくて、インテリ欧州人が多いかなー。



2004年11月16日(火) 夢日記

 本日の夢日記。

 パソでメールチェック。受信トレイに、なっつかしい会社の男の同僚からのメールが一通。早速クリック。

 ♪じゃららら〜ん、祐子、元気ィ?

 と、これ、パソ文字のメッセージなんかじゃない。
 音声付動画メール。懐かしい顔だけど、40のおっさんになっている。
 ひ、ひ、髭が濃いぞ!

 いっつもワルシャワ日記、こっちで見てま〜す! 
 相変わらずパワフルにやってますねぇ。


 げらげらっと笑って、別の同僚、割り込むように画面に登場。

 ハ〜イ! 俺で〜す。ここ俺んちで〜す。
 
 なんか酔っ払ってる。二人とも。
 
 娘が二人いま〜す。4歳と2歳で〜す。

 と、アングルが変わって、いきなり日本のリビングのおもちゃコーナーとその娘二人。画面の片隅に写っている。その後、ふすまの画像ショットになって、いきなりそこで終ってしまった。

 な、な、なんだったんだ?! 今のは。

 私、大変アナクロな人だから、最先端の技術なんか知らないんだけど、イマドキ、もしかしたら、本当にこういう動画メールなんてあるのかな?
 その同僚は、会社のシステムで働いていた人だから、昔から何でもPCの流行りものとか詳しかったけど。

 その後の夢の続きは、さっきまで覚えていたけどもう忘れちゃった。

 記憶の断片だけなら。

 市場の八百屋にダビングしてもらったCDを取りに行ったのに、そこのあんちゃんがいなくて、別の店のおばちゃんが、レジの内側を見てくれて、CDは受け取ることができたんだけど、家で再生しようと思ったら、CDよりも一回り大きな、ソノシート(ふ、ふ、古い!)で、我が家のCDプレーヤーには入らなかった。

 というところで、目覚ましぴぴぴぴぴ……。

 ???。 うーむ。

 
 



2004年11月15日(月) 山古志村にて

 今朝の夢。

 私、山古志村にいた。田んぼのあぜ道を歩いていたら、地元の被災民のお爺さんと小父さんが足早に、半壊した何かの施設に向かって歩いていた。

「おじさん、どこいくん? そこ立ち入り禁止区域やろ?」
「うん、牛舎や。家の牛、次々死んでいっとる。せめて生きとる牛にだけでもエサやらんとな。うちらの大事な大事な牛なんや」

 あっという間に二人の姿は遠く小さくなった。
 たてつづけに、作業服の年輩の男性がやってきた。

「この前の余震で、工場の屋根が落ちてしもうた。もう何もかも使い物にならん。余震が危のうて後片付けもできんのや」
「やがてまた、同じ仕事で再開されるんですか?」
「再開したいけど、この余震がある限り、いつになるか、全然めどは立たん」

というや否や、足元から強い揺れを感じた。そこで私が地震を体験したのは初めてだったので、思わず足がすくんでしまった。揺れが収まるまで無意識の内に声にならないような悲鳴をあげていた。

 余震というのは今度いつくるか予想などつかない。
 ずっと迎えくる揺れに対して、腹をくくって覚悟をしておかないといけない。一瞬たりとも気を抜いてはいけない。

 今まで「安全という名の生活」にあぐらいをかいて暮らしていた身には、いつ降りかかる危険を、ドキドキはらはらロシアンルーレットのように覚悟しないといけないのは、相当な精神力を必要とする。

 私がそこにいただけでも、何度も余震を感じた。かなり揺れを強く感じるのも、ぐらぐらっとかすかに感じるだけのも。じっと耐えなければならない、拷問のようなつらさであった。

 避難生活をしている人々のところには行かなかったけど、家を失い、職場を失った人々は、どんな思いでこの揺れと戦っているのだろう。
 自分の想像力の限りで思いをめぐらせてみた。
 こんな柔な私の精神力などはるか及びもしないに違いない。
 
 一瞬先の未来が怖くなって、その場でただひたすら涙が出てきた。
 
 *  *  *  *  *  *  *  *  *  

 この夢を思い出したのは、寝起きではなく、お昼近くになってから。

 朝からだるくて、なんだか心臓に負担のかかるつらさだなぁとは思っていたんだけど、ふと思い出した。そういえば、こんな夢を見たって。

 それにしても、妙にリアルで村の細部まで記憶にある。
 揺れの強さ、怖さまで。
 夢の中でよっぽど精神的に強いストレスを感じていたのかもしれない。


 私、夢の中で幽体分離して、山古志村に行ってたのかもね。

 


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祐子 [MAIL]

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