ミドルエイジのビジネスマン
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2009年06月07日(日) |
ワールドカップ本選出場決定 |
1−0で辛勝したウズベキスタンとのサッカー中継も終わった午前1時過ぎに、デッキに出てみると満月がやや西に傾きかけ、星も輝いていた。近くの池では低音のウシガエルが重厚に声を掛け合っているので、彼らに語りかけたくなった。
ウズベキでは サッカー勝ったぞ ウシガエル
「奇跡の脳」を読了。突然脳卒中の発作に襲われた。左脳の機能が低下していくに連れ、温度や痛みや触れている感覚などによって自分と外界の境目を認識することが困難になるところが最も興味を引かれた。境界がなくなるということは世界(世界も宇宙も一緒だが)と自分が一つになるということだ。
蘇生して、死の淵から生還した人は、しばしば「向こうでは心が平和で、こちらに戻ってくるのが辛かった」と言う。著者のジル・ボルト・テイラーも同様に幸福な気持ちで一杯だったそうだ。
さてさて、週末は町内の側溝清掃と自動車の任意保険の更新、そしてウッドデッキの上のビールで終わってしまった。後悔先に立たずだ。
そういえば、図書館に本を返しに行って、また借りてきた。自転車で行ったのに夕立に遭ったので、雨宿り気分で小さな図書館の静かな雰囲気を楽しんできた。新しく借りてきた中では、女性の脳科学者が若くして自分が脳卒中になっちゃったという、「奇跡の脳」(ジル・ボルト・テイラー著)は楽しみにしている。まだ最初の方しか読んでいないが、脳内出血のために脳が機能を弱めていく過程で、体の外と中を分けている境界の意識が薄れていき、肉体が頭脳の指令だけ動く機械ではなく細胞単位の統合体であること、あるいは自分が分子レベルで宇宙の一部であるという意識が強くなったという。肉体的には頭の中から冷たいカキ氷を食べた時のキーンという強い痛みを感じるけれども、精神的には外界と自分の境い目が韜晦していくような幸せな感じがしたという。
これらは、以前読んだ立花隆の「臨死体験」に体験例としてしばしば描写されていた現象と共通するものがある。多分そうだろうと思う。死が苦痛に満ち、暗く重いだけのものであれば、最初から「生命(いのち)」などもらい受けない方がいいくらいだから。
昔であれば、このような経験をした人は宗教家になるしかなかったであろうが、今の世は快復した後引き続き脳科学者として発言し、その内容が社会的にも受け入れられ、その後の快復過程が、リハビリに苦しむ人や病気の予備軍に希望を与える。ちょっと読んだだけで、良い本だと予感させる。
エナジー水を補充するため、久しぶりに埼玉県の柳田ファームを訪れた。たまたま、他に5人もの来訪者がいて、今後の「民衆運動」をどう進めていくか話し合っていた。こんなに、早く、しかも影響力や実行力のある人達が集まってくるとは思わなかったので正直驚いた。既に、店の入り口付近にトイレがあって、その臭いに悩んでいたコンビニがプラント(というほど大げさなものではないらしいが)を設置したら、臭いもなくなった上、エナジー水が取れるようになった。ただし、1槽式のため、純度は高くないらしい。
20畳ほどのログハウス(?)の2階の部屋から、雨に打たれた林の緑が鮮やかに目に入り、確かに、この辺りには人の心を爽やかにするものがある。酸素マスクをつけたときのような、どこまでも深く深呼吸をしたいような、そんな気になる。
人伝(づて)に、全国区の味噌醸造会社の人や大手スーパーの幹部の人が、あの、ひとりで養豚をやっている男を訪ねてくるのだという。
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