みゆきの日記
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2004年04月14日(水) 流産

朝6時の出勤時刻に間に合うよう、5時45分頃トモユキが家を出た後、
私はしばらく眠れずにベッドに横たわっていた。
妊娠がわかってからは一日中眠くて眠くて、毎朝トモユキを送り出してから
二度寝していたくらいだったのに。
菜子はぐっすり眠っている。
私も眠らなきゃ、と思うのに、眠気はなかなか訪れなかった。

出血がおさまった様子はなかった。
8時ごろ、母から電話がかかってきた。
知り合いの助産婦さんに話を聞いたところ、十中八九流産だと思いますよ、
早く病院で処置を受けたほうがいいのでは、と言われた、と言い、
みゆきちゃん、あんまり期待しないほうがいいわ、と言った。

電話を切ってから、希望を絶たれたような気がして母を残酷に感じた。
そんなの、わからないじゃない、と泣きながら思った。

8時半ごろ、トモユキが帰ってきて、一緒に病院に行く準備をした。
かいがいしく菜子の朝食の世話などしてくれるトモユキがありがたかった。
昨日診てもらった日本語のわかる先生ではなく、菜子を取り上げてくれた先生のところへ行くことにした。
この先生は、あまり詳しい説明をしてくれないので、子宮の形が流産しやすいなどということは聞いたことがなく、
そのことも併せて聞いてみたいと思ったからだ。
なんといっても私のお腹を切り開き、菜子を取り出してくれた先生なのだから、
一番よくわかってくれているだろうと思った。

クリニックに入っていくと、看護婦のパティが、お久しぶり、と言った。
菜子ちゃん、大きくなったわね。
彼女は片言の日本語ができるので、先生の言う専門用語でわからない言葉をよく通訳してもらったものだった。
Uterus(子宮)、Fibroid(筋腫)、Delivery(分娩)、(Labor Pain)陣痛、といった出産に関する言葉はいつもパティに教えてもらった。

まず、体重をはかってください、と言われ、体重計に乗った。
体重は一晩で2キロ落ちていた。
後で聞いたことだけれど、トモユキはこれを見て、ダメかもしれないと思ったそうだ。
私の話を聞き、超音波断層で子宮の中を確認すると、先生は首を振り、
`No good`と言った。

「さっきあなたが持ってきたもの(半透明の塊のことだ)は、
 やはり多分赤ちゃんの一部だと思う。
 子宮の中に残っていられなくて出てしまったのでしょう。
 Evacuationの処置をしなくては。まだかなりの部分が子宮の中に見えるから。」

「Evacuation?」

「ソウハ」とパティが言った。

掻爬・・・。

「Miscarriage」と女医は言い、「Miscarriageは日本語でなんて言うの?」

とパティに聞いた。

「エート、、Miscarriageはエート、、、」

パティが私の顔を見た。

私は、「流産」とだけ言った。
泣くまいとするのに必死だった。


パティが処置の予約を取っている間、待合室で待った。
菜子がぐずりだしたので、トモユキが食事をさせに連れ出し、私は一人で待った。
産婦人科の待合室で泣きたくなかったので、泣くのを必死にこらえて、なにかほかの事を考えようとした。
壁一面に貼ってある生まれたての赤ちゃんの写真ー菜子の写真もあるー、
気だるげに腰掛けたお腹の大きい妊婦さんたち、かつて希望に目を輝かせながら通ったクリニックだった。
何もかもが違って見えた。
診察室からお腹の出ていない若い女が出てきた。
母親らしい初老の女性と、はしゃぎながら超音波写真を見て指差したりしている。

ついこの間まで、私はあの場所にいたのだと思った。
すごく遠くまぶしく見えた。


午後、処置を済ませたら数時間眠り、その日のうちに退院していいですよ、と
先生は言ったので、
トモユキと菜子は家に帰らずに私を待つことになった。
手術用のガウンに着替えて、ガラガラとキャスター付のベッドで運ばれていく。
何もかもが、同じだった。
病室も、病院のガウンも、オペレーションルームの天井も。
菜子が生まれた日と、何もかも、同じ。
違うのは、私のお腹にはもう赤ちゃんがいないことだ。
すくなくとも、生きている赤ちゃんは。

もうやめよう、と思った。
私の思考は少し病的すぎる。
看護士が入れ代わり立ち代わりやってきて、いろんなことを聞いていった。
何人めかの看護士が、アレルギーの有無や食事の時間、私の国籍、手術経験などを聞いてきた後で、
お子さんは一人?と聞いた。
ええ。
もっと欲しいと思う?
ええ、欲しいです。(欲しかったのに・・・)
でもきっとまだ早いのね。(Maybe too early, yeah?)

この処置は、中絶する場合と同じことをするのだと聞いたことがある。
中絶すると思われたのか。
私はなんだか疲れてしまい、もう返事をする気が失せて黙って横を向いた。
パティがやってきて、ダイジョブ?と聞いたので私はうなずいて少し微笑んで見せた。

すべてが終わった時は5時半をまわっていた。
私は少し眠り(菜子は私のベッドの足元で眠っていた)、サンドイッチとココアの簡単な食事をとらされてから、退院した。

家に帰ってから私が泣くと、トモユキが、もう泣いちゃダメ、と言った。

「なんで?いいんだよ、泣いたって・・・。今日は。」

今日は。
そう、今日なんだもん、流産したのは。

昨日会っていた友だちが心配して電話をくれて、「赤ちゃん、ダメだったんだ」と私は言った。
友だちは言葉がない様子だったけれど、無言の同情に少し慰められた。
それと同時に、何人か報告しなければならない人がいることに気づいた。
母は、すごく心配しているだろう。
母や、義母は仕方がないとしても、友だちに言うのはつらかった。
同じマンションには、同じくらいの週数の妊婦が二人いて、
偶然だねー、なんてはしゃいでいたのは、つい先週のことだったっけ。
彼女たちのお腹がこれから大きくなっていっても、そのことでつらくなったりだけは
しなければいいな、と私は思った。
それから、来週中絶する私の知り合いの女の子。
彼女ともほぼ同時期に妊娠がわかり、彼女は未婚のために出産を迷っていた。
私の友だちではない上に、私はあまり彼女が好きではなかったので、
そんな話は聞きたくなかったのだけれど、なつきの親友なので話は耳に入ってくる。
彼女が流産しかかったと聞いたのはだいぶ前のことだった。
安静を命じられたが、堕胎を決めていたので仕事も休んでいなかったのに、
流産しないので、来週堕胎する、と聞いていた。
私とは関係ない、と言い聞かせる。

育てなかった赤ちゃんは、私だけの問題なのだ。
その夜は、麻酔がまだ残っていたのか、ぐっすり朝まで眠った。
気がつくと、なんとか防げなかったものかと考えている自分がいる。
日本に帰ったりしなかったほうがよかったのでは、
切迫流産の診断を受けたときすぐに入院していれば、
菜子を取り上げてくれた先生にもっと早く診てもらっていれば・・・。

ともすれば、涙があふれてくる。
前向きな考え方ができるまでには、まだ時間がかかりそうだと思った。


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