petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2003年09月25日(木) 『月光 3』(ヒカ碁小ネタ。やっとヒカル登場)

「こんばんわ」
「こんばんわー」

明子がペンライトを片手に玄関に出ると、それに気付いた緒方とヒカルは軽く頭を下げた。

「こんばんわ、緒方さん、進藤くん」
明子が持つペンライトと、搭矢家の暗さに、緒方は驚いているようだった。
「家の電気も全部消しているんですか?」
「ええ、そうなの。だって、せっかくのきれいな月なんですもの。電気をつけない方が風情があってよろしいでしょう?」
「真っ暗なの?」
とヒカルが首をかしげると、明子はいいえ、と首を振った。
「いいえ。行洋さんが行灯を作ってくださったから、それに蝋燭を立てて灯りにしているの。庭のあちこちにも置いたから、とてもきれいなのよ」
「すっげー!見たい見たい!」
「ええ、どうぞ。足元が暗いから気をつけてね」
明子はヒカルが雪駄をぬぐのをライトで照らし、緒方も三和土から上がったのを確認して、庭へと案内に立った。













趣味の良い和風の庭に点在して灯された、行灯のやわらかい光。
そのほのかな灯りの中、碁に興じる人々。
縁側で空を見上げながら、酒をくみかわしては談笑する穏やかなざわめき。
月に供えられた白い団子。
ゆらゆらと風を招くようなススキ。
ヒカルは、目の前に広がる光景に目をかがやかせた。
「うわぁ……すごい…」
「良い風情だな」
緒方も小さく呟いて、その場に立ちつくしていた。

「進藤くん、緒方くんも。よく来てくれたね。丁度月も良い具合だ」
そんなふたりに気付いた行洋は、ふわりと微笑んで手招きしてみせた。
普段の彼を包む重い雰囲気が、今夜は月と酒の力か、やわらかなものになっている。
「行洋先生、こんばんわ」
「先生、お招きいただきましてありがとうございます」
行洋の前に座って軽く頭を下げたヒカルとは対照的に、緒方はきちっと姿勢を正して深々とお辞儀をした。
やんちゃなようで筋だけは通さずにいられない生真面目さは変わらんな、と師匠は苦笑しながら頷いた。
「今日はそこまでかしこまる席じゃないから、楽にしなさい」
「はい。…先生、よかったらこれを」
緒方が風呂敷から取り出したのは、陶製の瓶に入った焼酎だった。
「…ほう、鹿児島のものかね」
「はい。「はやと」の主人に頼んでおいたのですが、ようやく届いたので」
行洋は手作りと分かる大きな瓶を味わうように両手で持ってみた。酒に火照った手に、陶器の肌が冷たく心地よい。
「ありがとう。早速、いただくとしようか」
「行洋先生、焼酎飲むんですか?ちょっと以外」
ヒカルの言葉に、行洋は苦笑した。
「体に良いというのでね。…倒れて以来、飲むようになったんだよ。…ところで」
行洋はヒカルをまじまじと見つめた。
「進藤くんも、着物を着ることがあるのだね」
そう。今日のヒカルは、いつものような、カジュアルファッションではない。気楽なお月見であるから、てっきり普段着で来るだろうと予想していたので、(緒方ですら、綿パンに半袖シャツ、麻のジャケットというくだけたものだ)紺の楊柳の着物に綿の袴というヒカルの着物姿は、意外だった。
「あ……これは……」

どう説明して良いか、言いよどむヒカルに、グラスとポットを持ってきた明子が助け船を出した。
「今日は進藤くん、良いものを披露してくださるのですって!そうよね?」
「あー…、えーと……はい」
複雑な顔をするヒカルに、緒方は傍らに置いていたもう一つの風呂敷包みをヒカルの前に押し出す。
「ほら、進藤」

「うーん。今日は十五夜だし…一応毎年やってるし……今夜もじいちゃん家でするつもりだったんだけど……いいのかな……えーと」
ためらう様子を見せるヒカルに、行洋は笑ってみせる。
「何のことかさっぱり分からないよ。緒方くん、進藤くんは何を見せてくれるというのかね?」
「これですよ」
「あ、緒方さん待ってってば!」
ヒカルの制止も聞かず、緒方は風呂敷包みを解いた。

そこから現れたのは。


「……鼓……」
「ね、素敵でしょう?進藤くんが、月の下で鼓を打ってくれるっていうのよvv」


「あまり…人前では打ったことがないんだ……いや、ですけど」
ぽりぽり、とヒカルは照れたように頭をかく。


「…昔、すげぇ月が好きな奴がいて」

月が出る度に、指折り数えて。

「そいつが、その月の下でよく笛を吹いてて」

今でも覚えている、その澄んだ音色。月下に佇む、華のような姿。

「ヘタクソでも俺が鼓を打てるって知ったら、合奏しようって、ものすごく強請ってきて」

子供のように。

…ヒカルはうつむいた。
「でも、俺…まだヘタだからって、嫌がって、逃げてばかりいた」
声がふるえる。
「合奏しようって約束…果さないまま、そいつは―――」

―――消えてしまった。

残されたのは、託された扇子と、果せなかった、約束。


叱られた子供のようにうつむくヒカルの髪を、緒方がそっと撫でた。
「それで毎年、中秋の名月の日の夜に、鼓を打っていたんだそうです」
ヒカルの代りに、緒方がそっと後を続けた。
ヒカルの祖父の家で。小高い、月がよく見える山の上で。月光がふりそそぐ海の前で。
涙をこらえながら、一心に鼓を打つヒカルの姿を、緒方はいつも見つめていた。
それが終われば、いつでも、抱きとめてやれるように……。


行洋は、知らず、袖の中で腕を組んで聞いていた。
「…今夜は、何故?」
そんな供養を意味する鼓ならば、何故、今夜はこの家に…アキラの招待に応じたのか?

その問いに、うつむいていたヒカルはうっすらと微笑んだ。
――今にも、泣きそうな笑顔で。
「あいつ、月も好きだったけど、囲碁がいちばん好きだったから」
ヒカルは庭に目をやる。ささやかな宴は、今も続いていた。

「秋の月と…囲碁と。ここには、あいつが好きだったものそのものがあるから」
そして…彼が好敵手として認めた搭矢行洋、その人がいるから。
佐為がいたら、何よりも喜んだであろうこの光景。


「無理な願いなのは分かってます……けれど、今夜、この庭で、鼓を打たせてもらえませんか?!」

佐為のために……!



ヒカルは頭を下げたまま。
沈黙が落ちる中、明子は焼酎の瓶の蓋を開け、グラス注いでから梅干しをひとつ入れ、ポットのお湯を注いだ。
ほかほかと湯気の立つそれをかきまぜてから夫の手元に捧げると、夫はすい、と組んだ腕をほどいてグラスを受け取る。
そして行洋は、一口、それを呑んだ。

「進藤くん」
「はい」
「せっかくの名月だ。私たちも、その鼓の音を相伴に預かってもよいかな?」

きょとん、としているヒカルに、緒方は慌てて耳元で「許可していただけたんだ」と通訳して囁いた。
ヒカルはがばっと行洋に向き直った。

「ありがとうございます!」


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