2003年10月03日(金) |
『月光 5』(ヒカ碁小ネタ。ヒカル19歳) |
鼓の音がひびく。
秋の、すすきが風に揺れる庭で。 ほのかな行灯の灯る庭で。
先程までの虫の音は絶え。
月光の下、ヒカルが打つ鼓の音だけが、こだましていた。
高い音、低い音。少しこもった音、かすかにしか聞き取れぬ囁きのような音。 深く響くヒカルの掛け声。
音と、月の光に魅せられて。
そこに座した人々は、ただ、その光景を眺めているだけ。
それは、ほんの十分ほどの、わずかな時。
――しかし、人々には長くながく、いつまでも続くように、感じられた。
ヒカルは、きゅ、と眉をしかめる。 月を見上げて。
――まだ、終わっていない。 最後まで、打ちきらなくては。
それまでとは違う、はりつめた、しかしゆったりとした声が消える瞬間。
「――――!―――」
人々を目覚めさせるような、これまでで一番冴えた音が響き。 ――そして、静寂が帰ってきた。
ヒカルは、ゆっくりと、構えていた鼓を下ろした。 彼の視線は月から離れない。 …まるで、月からの言葉を待っているように。 しかし、その言葉は、もう、決して聞くことは………
ヒカルは、ゆっくりと、目を閉じた。
痛いくらいしずかな夜。
沈黙するヒカルに、微かな音が届いた。
「…?…」
目を閉じたまま、耳をすませる。
……確かに、聞えた。
「…ヒカル?」 鼓を打ち終えた後、動こうとしないヒカルを思い、緒方がヒカルの側に近づいた。 「――しっ。黙って」 ヒカルは緒方を制して、人差し指を唇にあてる。 何事かと息をのむ搭矢一門の耳にも、やがてそれは聞こえはじめた。
鈴を転がす、虫の音。
ひとつが、やがてふたつに。 ふたつが、やがて織り重なるように高く、低く。ころがる、ころがる。
「月からの、贈り物のようね」
明子は、ふわりと微笑んだ。
「そうだな」
行洋は、無意識に組んでいた腕をほどき、焼酎のグラスを手に取った。
「きっと、進藤くんの鼓の音に対する、月からの、お返しなんだろう」 夫の言葉に、明子は微笑む。 「…ええ。きっと」
彼らの視線の前には、虫の音に聞き入る彼らの息子と、そして弟子たち。それから、月の色の髪をした青年。
そんな彼らを、月のひかりがやさしく照らすのを、ふたりは、見ていた。
「進藤」 「あ、搭矢」 「良いものを聞かせてもらった。ありがとう」 「へへへ……あんまし、稽古時間取れてないから、自信はなかったんだけどな」 「いや、冴えた良い音だった。驚いたよ。君にみんな特技があったなんて」 「進藤く〜ん、すごいじゃん!ねぇねぇ、これが鼓?どう鳴らすの?」 「あ、芦原さん、構えが逆……いや、胴を握ったら音は出ないってば!」 「この朱色の紐はなんだ?ずいぶんケバ立っているが…」 「絹じゃないな……ワラ?」 「進藤、喉が乾いただろう。何かいるか?」 「ありがと、緒方さん。俺、さっきの焼酎が………」 「却下。よし分かった、サイダーにしてやろう」 「あはははは、まだお子様だからねぇ」 「来年でもう二十歳になるってばー!」 「進藤、あっちの床几で打たないか?」 「おう♪」 「しかし意外な芸でしたね」 「今年の棋院の忘年会で披露してもらったらどうだ?」 「鼓だけでは寂しいでしょう。笛か何か……」 「謡がついたら格好が良いなぁ」 「『たぁ〜かぁ〜さぁ〜ごぉ〜やぁ〜〜』か?」 「それは結婚式!」 「懐かしいわね。確か、私たちの時には桑原先生が『高砂』を謡ってくださって」 「そうだったな」 「奥さん!アキラたちのサイダーはこれで良いんですか?」 「ああ、ちょっと待って。せっかくだから、少し梅酒を混ぜてあげましょう」
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