petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2004年02月20日(金) 『チョコレート・オペレーション5』(女の子ヒカル小ネタ)

…そんなこんなでバレンタイン当日。
今年の14日は土曜日とあって、日本棋院では、棋院に直接チョコレートを届けに来るファンや、意中の相手を探す女流棋士や院生、義理チョコを配る女子職員らが行き交い、そして若手棋士がチョコレートを貰えないかとさりげなくウロついてみたりして、いつになくざわついていた。

「…いいわね!進藤。ちゃんと渡すのよ!」
「奈瀬…オマエ、待ち合わせはいいの?」
ぴくり、と彼女の眉が跳ね上がる。
「余計なお世話。まだ時間はあるし、少々遅れようが待たせるわよ」
「う〜わ〜、飯島、ヒサン〜」
「ウ・ル・サ・イ」
奈瀬はぐい、とヒカルの鼻をつまんだ。
「ヒデデデデ!ヒダイ(痛い)ってば!!」
ジタバタ暴れるヒカルの様子に満足して、奈瀬は手を離した。
「アンタがちゃんとチョコを渡せるかどうか見ておかないと、気になってデートどころじゃないのよ!」
「だから別に渡さなくたって……っ痛!」
ぱかん、と今度は頭をグーで殴られた。

一方、桃李とひろみはヒカルが手にしている袋の中身に興味深々だ。
「進藤さん、どんなチョコ買ったんですか?」
「洋酒がたっぷり入ったのとか、それとも生チョコ?!」
「なに?トーリちゃんロミちゃん、ほしいの?だったらあげよっか?」
何も考えていないヒカルの言葉に、2人は慌ててぶんぶんぶん、と首を振った。
そんな恐ろしいコト、できる訳がない。
先程から、ヒカルが手にしている紙袋には、周囲の男性棋士や男子院生から、痛いくらいの視線を集めているのだ。「アノ中身を渡されるのは誰だ?!」――と。
もちろん自分たちはその相手を知っているけれど、(何しろ、「渡せ」と説得したのは自分たちだ)周囲の反応が恐ろしくて、実は3人とも黙っていたりするのだ。

「――あ、来ましたよ」
階段を降りてくるおきまりの白いスーツの姿を、ひろみが見つけた。
「さぁ、とっとと行ってらっしゃい!」
どん、と奈瀬がヒカルを押し出す。
「がんばってくださいね〜」
桃李が物陰に隠れながら手を振った。奈瀬、ひろみもそれにならう。

「なんでかくれんのさ〜?」
3人の様子に首をかしげながら、ヒカルは前方に向き直った。緒方は売店に用があるのか、ヒカルに背を向けて歩いている。
ヒカルはととっ、と駆け出した。ちょっと面白そうだったので、それなりに勢いをつけて。
「緒方さ〜ん!」
そして緒方の広い背中に思い切りぶつかっていった。
「?!」
「へへへ〜〜、びっくりした?ねぇびっくりした?!」
してやったり、と嬉しそうに微笑んで、ヒカルは緒方の背中にはりついたまま彼を見上げる。緒方はじろり、とヒカルを振り返った。
大抵はこの緒方の視線でヒヨッコ棋士などは射すくめられてしまう。
しかし彼女はそれにあてはまらない貴重なひとりだった。(ひとりは緒方の弟弟子)
けろりとして悪びれない様子のヒカルに、緒方は眉をひそめる。
「……で?何の用だ」
「へ?」
「用があったから俺にタックルまでかまして呼び止めたんだろうが。何の用だ」
ヒカルの手を外し、緒方は彼女に向き直る。
「つまらん用だったらコロス」…というオーラを発するのを忘れずに。

「あのさー、緒方さん」
「ああ」
「義理チョコ、ほしい〜?」


――この瞬間、物陰から様子を見ていたデバガメ1号〜3号…もとい、奈瀬と桃李とひろみがおもいっきりコケた。
周囲でそれとなく様子をうかがっていた棋士たちも硬直した。
緒方がヒカルを気に入っているのは、囲碁界では周知の事実である。事あるごとにヒカルをかまい、食事に連れ出し、他者とはこれでもかというくらいの待遇で接している。そんな緒方だ。ヒカルからのチョコレート、欲しくない訳がない。
今日はバレンタインデーなのだから。
しかしこの場で、本人から力いっぱいの「義理チョコ」宣言。
見栄もプライドもかなぐり捨てて、「ヒカルからのチョコ」を受け取るべきか。しかし「義理チョコ宣言」までされたモノを、喜んで受け取ることは、男の沽券にかかわるのではないか。
…自然、周囲の注目は緒方に注がれた。

緒方は眉をしかめ、眼鏡を右手で押し上げた。
(何を考えてるんだコイツは……)
じっと、ヒカルを見つめる。ヒカルはきょとん?としたまま、緒方の答えを待っていた。その手には、赤い小さな紙袋。
――それだけだ。
緒方は、自分の問いに対しての答えも既に持っていた。
彼を見上げるヒカルの目。それが真実。
(何も考えてねぇんだろうな……)
それが正解。
ヒカルの足りなかった言葉を補足すると、こうなる。
「皆が緒方さんに義理チョコでも渡しなさいって言うから持ってきたんだけど、緒方さん、欲しい?欲しくない?どっちでも良いよ」
……こんなところだろう。「チョコをあげる」以外の感情など、まるでない。
緒方は軽く、ため息をついた。


(バカ進藤〜〜!!それじゃ緒方さんが受け取ってくれる訳ないでしょぉぉおお〜〜!!)
思わず飛び出しかけた奈瀬を、後輩の2人は必死の思いで止めていた。
(まだわかりませんよ!)
(緒方先生、いらないって言った訳じゃないんですから!)
ぼそぼそ、ぼそぼそ、声は小さいながら口調は半分叫んでいる。


しかしそんな事などまるっきり知らないヒカルは緒方に問い掛ける。
「ねぇ、どーする?いる?いらない?」
「いらねぇよ。俺は甘いモノは食わん」
緒方の返事はしごくあっさりと返された。


おおお、と周囲でざわめきが起こる。
やはり実(チョコ)よりも名(プライド)を取ったか緒方十段。
しかもヒカルの手元にはチョコが残った。
――義理でも良い。欲しい!
若手棋士たちが小さく、しかししっかりと拳を握り締めた。
あわよくばチョコを受け取ってもらえずに落ち込むヒカルをなぐさめて……などと彼らの思考はぐるぐるまわるが。

――んな訳ゃない。


「あ、やっぱり〜?」
ヒカルはあっけらかんとしたものだった。
「奈瀬とかが「緒方さんにはいつもお世話になってるんだから、お礼の意味も込めてチョコを渡せ!」って言うから用意したけど、緒方さん甘いもの食べないもん。苦手なモノを渡された方が迷惑だよね〜」
にこにこと笑う。
「…今、「日ごろのお礼も込めて」と言ったな」
ニヤリと笑う。

ヒカルはそれに気づかず、うん、と頷いた。
「俺に対して、感謝の気持ちはある訳か?」
「あーうん…。よくごはん食べに連れてってくれるし…囲碁界の「やくそくごと」なんてのもオレに分かるように教えてくれるし……うん。いつもありがとう」
ぺこり、とヒカルが頭を下げる。
その様子に、緒方は目を細めた。
「せっかくの感謝の気持ちなんだが、チョコは受け取れんな。別のものだったら受け取ってやるんだが」
…微妙な言葉のアレンジは、これが大人の技というべきか。
そしてヒカルはあっさりそれにノッてきた。

「…え!何?何だったらいいのっ?!」
「俺の好きなものさ」
「?」

ヒカルはきょん?と首をかしげた。
慌てたのは周囲にいたギャラリーである。この顛末はマズイ。非常にマズイ。

「緒方さんの好きなモノ……」
ヒカルは真剣に考え込む。緒方はその様子にニヤニヤと笑った。
「俺の好きなモノなど、決まっているだろう?」

さらに周囲はざわめいた。
囲碁界一の色事師と名高い緒方が好きなモノなんて、決まってる。
(早く逃げろ!ヒカル(進藤)!!)


「緒方さんの好きなモノって……「碁」?」

この答えに、緒方を除く全員が真っ白になった。

「…ま、正解だな」
緒方は予想がついていた、とばかりにくつくつ微笑う。
「碁って……そりゃ、緒方さんの好きなものだけど、それなら、緒方さん自分でやってるじゃん!」
あげられるものじゃないよ?とヒカルが見上げると、緒方はそんな彼女の金の前髪に触れた。からかうように。
「俺は、お前との一局が欲しい」
ヒカルは目を丸くした。
「そんなのでイイの?」
「…それが良いのさ」
…今のところはな、という言葉は、飲み込んでおく。

「それで…お前は、俺にくれるのか?」
緒方の指がヒカルの髪から離れた。
ヒカルはふわり…と微笑む。
「うん…あげるよ」
オレとの一局で良いのなら。
あの…月の夜に佐為が打ったような、綺麗なものじゃないけれど。

「じゃあ、とっとと行くぞ。どこか良い場所知ってるか?」
「え……あ…塔矢んトコの碁会所じゃなくて?」
「ああ」
たまには違う所で打ってみたい。

「んー……緒方さん家でも打ったことあるし、オレん家も行ったし、じーちゃんトコ行ったら、緒方さん取られそうだし……」
やがてヒカルは明るい顔で緒方を見上げた。
「そうだ!オレが院生の頃からずっと世話になってる碁会所があるんだよ!そこに行かない?」
「暴走タクシーの運転手が常連の店か?」
「うんそう!河合さん。緒方さん、よく覚えてるね〜。きっとマスターや奥さんもすっげ喜ぶと思うんだ♪」
楽しそうにはしゃぎながら駆け出そうとして、ヒカルははた、と立ち止まった。
「え〜と…そこ、めっちゃ普通の碁会所なんだけど……緒方さん、そんなトコでも、いいの?」
くるりと振り向いて問いただす彼女に、緒方はふっと微笑んだ。
「ああ」

「やった〜♪早く行こ!」
ヒカルは緒方の腕をひっぱり、棋院の玄関へと向かう。


その時、自動ドアから棋院に足を踏み入れた人物がいた。
…それは、老いたりともなお現役と本因坊のタイトルを誇る囲碁界の重鎮ともいうべき古武者(ふるつわもの)。

「あ、桑原のじいさまっ♪」

その彼を、嬉しそうに「じいさま」呼ばわりしたのだからたまらない。
先程までの緒方とヒカルのやりとりで、考える事を放棄したような周囲の棋士たち(奈瀬たち3人を含む)だったが、そんなショック状態はさらなるショックによって無理矢理覚醒させられた。
しかし「じいさま」呼ばわりされた当の本人は、気にすることなく好々爺然としてヒカルに声をかける。
「…おお、進藤の嬢ちゃん。緒方くんなんぞの手をひいて……デートかの?」
緒方はぴくりと「なんぞ」と言われた事に反応しかけたが、ヒカルはまったく頓着していない。
「あはは、じいさま相変わらず冗談が上手いなぁ……」
その時、ヒカルはふと、手元の小さな赤い紙袋を思い出した。

「そうだ、桑原のじいさま、これもらってよ♪」
ひょい、と赤い紙袋を桑原本因坊の目の前に差し出す。
「ほうほう、「ばれんたいんちょこ」とやらかのう?」
「うん♪」
にっこりと笑うヒカルに、現代の本因坊も相好をくずした。
「これはこれは。嬢からこんな爺に貰えるとはのぅ…長生きはするもんじゃ」
「そうだよー。オレが本因坊貰いに行くまで、待っててもらわなきゃ!」
「さてさて、楽しみにしているべきか、困るべきか……」
そう言いながら、桑原本因坊は楽しそうだった。

「じゃ、じいさま、またねvv」
ばいばい、と手を振りながらヒカルが外へ駆けだしてゆく。その後を、緒方が続いた。

「――後で欲しがっても、やらんぞ」
先程までの穏やかな様子はナリを潜めて、「意地悪ジジイ」そのものの顔で緒方をニヤリと睨み上げる。
緒方は無表情のまま答えた。
「――いりませんよ」

そのまま去っていく緒方と、先に歩むヒカルの姿を、桑原はどこか懐かしい目で見送った。
…そして、改めて石になりまくった棋士たちが揃う棋院の中を見回して、ため息をつく。
「……やれやれ。皆修行が足りんのぅ……」
まったく、嘆かわしい。
ぶつぶつと呟きながら、桑原本因坊はヒカルから貰ったチョコレートを手に、エレベーターに乗り込んだ。


そのエレベーターの扉が閉じた時、へたり、とひろみが座り込む。
「進藤さんって……」
その後をどう言ってよいものやら。
桃李もどこかぼんやりしていた。
「ここまで天然なんて……」
計算でもなりきりでもない本物の天然なんて、初めて見た。
奈瀬は大きなため息をついて、頭を掻いた。
「やっぱ……進藤って最強だわ………」
世間の行事も、ヒカルにかかったら見事にくつがえされてしまった。

彼女たちは、自分の手元にあるそれぞれのチョコレートに目をやった。
チョコレートは、ただのチョコレート。
それで伝えたいのは…何?
ほしいものは…何?

「さぁ、行くわよ!」

今度は、彼女たちのオペレーションが始まる。


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