2004年05月19日(水) |
『台風 8』(女の子ヒカル。ようやく完結…) |
テーブルに並べられたのは。 ふわふわとろとろのスクランブルエッグにスイートコーン。カリカリに焼いたベーコンと新鮮なトマト。ほうれん草のソテーに、コーンスープ。ほくほくの粉ふきイモ。しゃっきりのレタスとキュウリとアスパラのサラダ。 スープをしっかりと吸い込んでふっくらと炊かれた中華粥には、パリパリの揚げ春巻の皮とザーサイを添えて。ニンジンやブロッコリー、カリフラワーの温野菜にはごま油の風味のドレッシング。 白い炊き立てごはんと、納豆はねぎを入れてしっかりと混ぜておく。皮までぱりっと焼いた鮭の切り身には、大根おろしを添えて。それから湯気のたつ豆腐と揚げのおみそ汁。 無糖のシリアルには、自家製だというヨーグルトをたっぷりとかけて、それから、色とりどりのフルーツとフレッシュジュース。甘い香りの杏仁豆腐。
「……食べないの?緒方先生」 おなかの調子でも悪いの?と、首をかしげながら、ヒカルはコーンスープを一口飲んだ。 「…………………」 緒方はむっつりと黙ったまま、じろり、とヒカルに目をやった。きょん、と首をかしげるヒカルに改めてため息をつくと、彼はまた読みかけの新聞に視線を落とす。 …そう。目の前で無邪気にホテルの朝食をぱくつく少年のような彼女こそ、そもそもの原因。 元凶なのだが、そのことを彼女に語る気は全くなかった。 ――あの、自分がシャワーを浴びた直後に起こった出来事など。
――丁度、緒方がローブを羽織ってバスルームから出た時、ルームサービスの来訪を告げるベルが鳴った。 緒方はベルボーイを確認した後に鍵を開け、ベルボーイはコーヒーを乗せたワゴンを部屋に進める。その下の段には、昨日クリーニングを頼んだ緒方とヒカルの分の服がきちんとビニール袋に包まれて置いてある。 「では、こちらはお下げさせていただきます」 「ああ、頼む」 ベルボーイが、昨日のルームサービスの食器が乗ったワゴンを下げる確認をし、緒方はそれに適当に応えながらコーヒーを取り上げ、窓際のソファへと向かう。 カーテンから差し込む光は明るく今日も暑くなりそうな、そんな気配。
「………んー………?」
その明るさが気になったのか、夏布団にくるまった小山がもそもそ、と動いた。もそ…とベッドのシーツから出てきたのは、細かな金髪としなやかな黒髪の、ちいさな少女。細い手が、力無く伸びて、シーツをまさぐる。 そんな光景を、なんとなくほのぼのと見ていたのだが……次の瞬間、緒方はベルボーイと目が合ってしまった。
妙に片方だけ乱れているベッド。 そのベッドの上でシーツにくるまり、けだるく眠そうな少女。 それを微笑ましく見守るシャワーを浴びたばかりの、バスローブ姿の男。
……当時の部屋の客観的事実を挙げるとこうなる。 そして。
「――し、失礼しましたっっ!!」
一瞬硬直していたベルボーイは、慌ててワゴンとともに慌ただしく部屋を去っていった。その顔はしっかりと赤く染められて。
「―――待てコラ」
失礼ついでなら、お前が今考えた事も洗いざらい白状してから出ていけ――! 緒方は、心底そう叫びたかった。 コーヒーの芳香だけが、むなしくカップから立ちのぼる。
「………ん…まぶし……もぉ起きるのー?」
何も知らないヒカルはもこもこと布団に埋もれながら薄く目を開けた。 何も知らずにほこほこと居心地良さそうに目を細める。
「このおふとん…きもちいーvv」
――何も知らない幸せな顔が、これほど憎ったらしいと思ったのは初めてかもしれない。 緒方の眼鏡が、キラリと朝陽に反射した。 わしゃわしゃ、とうごめく軽い夏布団の端を、しっかと掴む。 ヒカルはぽすん、と布団になついた。
「いーきもちだから もちょっと寝ちゃお―……」
「とっとと起きんか、このねぼすけ!!」
布団を思い切りはぎとられたヒカルはそのままベッドから転がり落ち。 ぶつけた腰や腕をさすりつつ、ほよん、と笑って、緒方におはようとあいさつをしたのだった。
――以上が、今朝の顛末である。 …なのに、元凶たる張本人は、バイキング形式の朝食に大喜びし、あれもこれもとこれでもかとばかりにテーブルに持ち込んで、ご満悦だ。 幸せそうに焼きたてのパンにバターを塗ってかぶりつく姿を見ていると、朝から不機嫌に浸かっている方が、馬鹿馬鹿しくなってくる。 ばさり、と、緒方は新聞を脇に置いた。 「緒方さん、何食べる〜?分かんないから適当に持ってきてあるんだけど」 「そっちの中華粥よこせ。それから鮭の切り身はもらう」 「え〜、中華粥は楽しみにとっておいたのに〜!」 「ウルサイ。欲しかったら自分で取りに行け」 「ひっでー!」
賑やかに朝食を取るふたりは、ふたりともが目を引く容姿なのも相まって、フロアの注目を集めていた。 …しかし彼らは気にしない。 ひとりは本当に気づかなくて。ひとりは、そこまで気を使う気が失せて。
「ねーねー!このベーコンすっげおいしいよ!」 明るい前髪の少女は、食べてみて!と自分の前にある皿のベーコンを示す。 亜麻色の髪の男は、そんな少女の様子にくすりと笑った。 「…頬。ついてるぞ」 とんとん、と自分の頬を指で叩いて示してやるが、ヒカルにはどこについているのか分からなかった。 見当違いの箇所をこすったりしているヒカルに、緒方はくつくつと笑う。 「ここだ。…ほら」 手を伸ばし、ヒカルの頬についていたごはんつぶを指で取ってやると目の前に見せた。 「あ、ほんとだ〜。先生サンキュ♪」 ぱくり、とヒカルはその指についたごはんつぶを唇でついばんだ。
そんなふたりのやりとりに、周囲がまた、ざわめくのが気配で分かる。 やれやれ、と緒方は内心で肩をすくめた。 (…まぁ、好きなように見れば良いさ) どうやっても、進藤ヒカルは進藤ヒカル。変わりようがないのだから。
――たとえ、昨夜見た少女が、あまりにも目の前と違っていても。
本当に、この目の前にいる少女は面白い。退屈しない。させてくれない。 それだけでも、十分貴重な存在ではないか。
ひとり、そんな思索にふけっていると、ヒカルが自分をじっと見つめているのに気がついた。 「なんだ」 「昨日は…ありがと」 「?」 「怖いのは…オレだけじゃなかったんだね。先生みたいなひとでも、怖いんだ」 ヒカルは、ふわりと笑った。 ――あの夜の匂いがする、微笑みで。
「―――――――!」 それはどこか…少女とは思えぬほどの、色を含んで。
しかし一瞬後には、消えてしまった。
「ヨーグルトめちゃウマ〜♪フルーツといっしょに貰ってくるね♪」 ぱたぱたと。 短い黒髪を跳ねさせながら、駆けてゆく。
ひとり、テーブルに残された緒方は、みそ汁を一口飲んでから、やれやれ、とため息をついた。 ……どこか、楽しそうに。
本当に、彼女といると、退屈しない。
――台風が来る前の、ざわざわとした、高揚感。 そんな感じに、とても似ている。
台風は、過ぎたばかりなのに。
|