petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2004年09月17日(金) 『手に届く背中』2(女の子ヒカル小ネタ)

さっきまで戦いの場だった和室は……今は、ひっそりと静まりかえっている。
寂しさもあるが、今は何故か、その方がほっとした。

「着替え…なきゃ」

いつもは着ないスーツが、何となく息苦しい。
早く部屋に戻って、いつもの服に着替えてしまおう。
――そうすれば、また、「いつもの自分」に、戻るから。
ヒカルは、痺れがおさまった足に力をいれて、ゆっくりと立ち上がった。


運が良いことに、エレベーターはすぐやってきたし、誰も乗ってはいなかった。
自分の部屋の階のボタンを押した後、はふ、と一息ついて、ヒカルは壁にもたれかかる。


「さいぃ……負けちゃったよ………」


自分でも意識しなかったような弱々しい自分の声に、ヒカルは自分で驚いた。

――勝てなかったのは事実。
――自分のミス。
――もっともっと、強くならなければ、届かない。

ふと、エレベーターの中の鏡を見ると眉の下がり気味の、泣きそうな、弱い弱い自分の姿。

「いけない」

――こんなことで、こんな顔をしちゃいけない。

『……泣かないで』

――また、心配するから。

『……どうか笑って……ヒカル』

――せっかく、自分の笑顔が好きだと言ってくれたのだから。

『……あなたが笑うと、私まで嬉しくなります。…ふしぎな子ですね……ヒカルは』

――こんなところで、こんなことでとどまっていては。

ますます、届かなくなってしまう。
遥か高みに消えてしまった、あの、後ろ姿に。


その時、突然ポーン、と明るい音がして、エレベーターが止まった。
もう着いたのかな……ぼんやりと、扉がゆっくり開いていくのを眺める。

「―――!」
「進藤?」

扉の向こうに立っていたのは、白いスーツの、長身の男。
見覚えのある人物の登場に、ヒカルはパニックを起こしかけた。

(――嫌だ――――!)

反射的にそう思って、ヒカルは扉を閉めるボタンを押す。
見られたくない。
……今の自分は……誰にも。
もう少し。もう少し時間があったら……大丈夫。いつものように、笑えると思うから。
――だから、今は。


しかし、ヒカルのそんな願いは、閉じかけた扉を掴んだ大きな手によって、阻まれる。
「……随分な態度じゃないか…。挨拶もなしか?え?」
もう一度開いたエレベーターは、にやりと笑う緒方を迎え入れる。
「コンニチハ」
ヒカルはぷい、と顔をそむけながら挨拶の言葉を口にした。
彼女のそんな様子に、緒方は眉をひそめる。
――この表情は、どこかで……見た。

「おい、進藤」
緒方がヒカルの髪に手を伸ばした時、ヒカルはとっさにその手を弾き返した。
「さわんなっ!」
そして丁度目的の階に着いたのを良いことに、開いてゆくエレベーターの扉から飛び出す。
今はひとりでいたかった。
――誰かいたら、笑わなくちゃいけない。
それが、かの人が望んだ「ヒカル」
でも、今の自分にはそれは無理だから。
何故だか判らないけど、胸が痛くて、喉が苦しくて、目が熱い―――!

「―――待て!」
しかし手首を掴まれて、捕らえられる。逃げ出さないように、廊下の壁に背中を押しつけられて。
――奇妙な、デジャ=ビュ。
そういえば、以前にもこんなことがあった。
……そして…彼は、何と叫んだのだっけ……。

その時を思い出して、何故かおかしくなった。
(なぁんだ。あの頃から俺、全然成長してないじゃん)
だから……………

「――笑うな」
眼鏡越しで表情がよく見えない彼は、ぼそりとそう言った。
言ってる意味が、よく分からない。
そう思って首をかしげると、緒方はますます眉をひそめた。
「そんな顔で、笑うなっつってんだ」

(そんな顔……どんな顔?)

ますます分からない。考えていると、ばさ、と白いもが頭に被さってきた。
「?」
かすかに香る、男性用のコロンと、煙草の匂い。……そういえば、奈瀬が緒方の愛用の香水について騒いでいたような気がする…。
そんなことをぼんやり思っていると、ぐい、と手を引かれた。


「??」


引っ張られるままについて行くと、やがて緒方は目の前の重そうなドアを開けた。
きしみとともに、目の前に広がったのは。

遥かに周囲の空を染め上げる、茜色の空。
上から、白く、黄色く、そしてゆっくりと地表に向かうにつれて赤みを帯びた朱へと鮮やかさを増して………。
その先には、赤く輝く、夕焼けの太陽。

「…………………」

ヒカルがその景色にぼうっとしている間に、いつしか緒方はヒカルの手を離し、手すりにもたれて地上の風景を見下ろしていた。
「ここなら誰もいないぞ」
「?」

確かに、こんな高くまで螺旋を描く非常用階段に、誰もいる訳がない。

「誰も見てない」
ヒカルは、相変わらず緒方の上着を頭から被ったままで、夕焼けを眺めながら喋る緒方の背中を見ている。
その背中が、すごく近くにあることを、ヒカルは不思議に思っていた。ほんの数歩、踏み出して、手を伸ばせば、届いてしまいそうだ。

――アンナニ、トオカッタノニ――――

(ほんとに……届くのかな)
夢で追いかけたときは、触れる前に、消えてしまったけれど。
ヒカルは、おそるおそる近づいて、そおっ…と彼の背中に手を伸ばした。

ゆっくり、シャツの皺が近づく。
あと少しで、フレル。

その時、緒方はその腕を掴んで、一気に引き寄せた。

「――――!――――」

不意をつかれたのに驚いていると、自分の顔に緒方の背中がぶつかって、もうひとつびっくりする。
驚いた。
本当に、触れたことに。
その背中が、あたたかいことに。
その背中が、消えないことに。



「……笑いたくないのに、笑うな」

その声は、背中につけた耳から直接振動して伝わってくるようだった。




「負けて、悔しくて、腹が立って、むしゃくしゃして、八つ当たりして、見苦しくわめいて、何が悪い」




…今、そんな事を言われたら………
ヒカルは、ひゅっ、と息を吸い込んだ。息を殺していなければ、我慢が、できなくなりそうだ。なにか、せり上がってくる空気のかたまりのようなものを、抑えきれない。
――しかし、緒方はこう言うのだ。

「安心しろ」

煙草を咥え、火をつけたのが気配で分かる。

「――俺も見てない」

――背中を向けているからな。

言葉以外の彼の声が……聞えた、気が、した。



もう止まらない。
必死で抑えていたものが……ぽろぽとこぼれ始める。


「……いい…っ…の…?」


「――ああ」


応えて、緒方は紫煙を吐き出す。
風にあおられて、煙はすぐに彼方に飛び去ってしまう。



そして、夕焼けが薄闇に染まりかえるまで。
ヒカルは泣きつづけ。

緒方は、ヒカルに背中を貸したまま、振り返りもしなかった。


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