2004年09月15日(水) |
『手に届く背中』(女の子ヒカル。設定としたら台風の方) |
進藤ヒカルが、負けた。
「女流本因坊戦」第五局。11月の最後の局まで粘った、タイトルがかかった初めての挑戦手合いだった。 プロ棋士となって、二年弱というそれは、囲碁界始まって以来の初の快挙であり、女流戦では珍しく、新聞各紙でも注目を集めていたのだ。 これで彼女が勝てば、間違いなく最年少の女流タイトルホルダーの誕生である。 これを逃してなるものかと、取材陣は色めきたっていた。
――しかし。
「……ありません」
ヒカルは、ゆっくりと俯いて、頭を下げた。 中盤までは、互角だった。 しかし、たったひとつの読み違い。 …それを許してもらえるほど、甘くはなかったのだ。 これまで静かに動静をうかがっていた日下 ナツ女流本因坊は、苛烈なほどの気迫をもって攻めに転ずる。 ヒカルにできたのは、これまで築いてきた陣地を必死で守るくらいで。 ……守っていても、もう、勝てないと、分かった。
自らの負けを告げるとき、ヒカルは、手の中の扇子を力いっぱい握り締めていた。
「ありがとうございました」 「ありがとうございました」
一礼をした後、日下本因坊は勝負師の顔から、穏やかなそれへと戻った。そして、少し俯き加減の、娘のような年頃のヒカルに声をかける。
「タイトル戦って、重いでしょう?」 「……はい。くたびれちゃった」
はぁ、とヒカルもため息をつく。 タイトル戦でも、囲碁サロンの一局でも、ネット碁でも、一局は一局。それに違いないのだ。 しかし今の……これまでの、「女流本因坊」というタイトルがかかった挑戦手合いの、何と重かったことか………。 重なる取材攻勢、人々からの期待と、嫉妬、好奇心。 親しい人から、見知らぬ人にまで寄せられる、それ。
自分は自分。 ――そう思ってた。
いつもと変らない自分で。 ――そうあるようにしたつもりだ。
なのに、届かなかった。 女流ではあっても、かのひとの称号を冠した、その、頂点に。
疲れと悔しさと放心状態がないまぜになったようなヒカルの笑みに、女流本因坊は過去の自分を見たような気がした。
「足は大丈夫?痺れてない?」 「あー、なんとか……立てます。走れって言われたら無理だけど」 これまで正座していた脚をさすりながら、ヒカルは苦笑いする。 しっくりこない、幼いパンツスーツ姿。きっと、親御さんが心配して用意したものなのだろう。 先程の、一瞬たりとも気を抜けない戦いをした相手とは思えないほどの年相応のヒカルの様子を、日下本因坊は微笑ましく見つめた。
「失礼しますー」 「日下本因坊、防衛おめでとうございます!」 「進藤くん、残念だったねぇ。やっぱりタイトル戦は緊張した?」 口々に勝手な事を喋りながら、どやどやと取材陣や外野たちが入ってくる。 そのあまりの無遠慮さに日下は眉をひそめた。 しかしそれとは対称的に、ヒカルはほにゃ、と微笑んだ。 「へへ……負けちゃいました……//」 ヒカルのそんなあっけらかんとした様子に、今度は大の大人たちが毒気を抜かれる。やはり現代っ子だねぇ、だの、若い子は勝負にこだわりを見せないから…だの、その方が平常心でできるんでしょう、などとの声が聞えた。 ヒカルはその間、頭をかしかしとかきながらにこにこと微笑んでそれらを聞いていた。
「日下本因坊、検討は……」 「ああ、検討ね。食事して、一休みしてからにしましょうvv」 「え」 目を丸くする係員その他一同に、日下本因坊はぱたぱた、と手で顔をあおいだ。 「もう夕方近いし……私もこんな長期戦、疲れちゃったわよ。タイトルの授賞式はどうせ東京に帰ってから日を改めてするんでしょう?」 「あ…はい。その予定です」 「だったら、検討は食事して、ひとっ風呂浴びてから気持ち良くやりたいんだけど……進藤さん?どうかしら」
話の水を向けられたヒカルは、きょん、と首をかしげた。 「…へ?そりゃ……日下先生がその方が良いならそれで………」 「あとは検討だけだし、スーツ脱いで、ジーンズとかジャージ着てても良いわよ」 「――お願いしますvv」 堅苦しい格好に再び着替えなくて良い、その理由だけで、ヒカルは即、日下本因坊の提案に乗った。 あまりにも彼女らしいその反応に、その場にいた一同はどっと沸く。
「それじゃ、七時半に……此処で」
用件を済ませてしまうと、日下女流本因坊はさっさと立ち上がり、その場を後にした。まずは勝者であるタイトル防衛者のコメントを取らないと、と取材陣は彼女の後を追う。
部屋にはぽつんと…ヒカルだけが残った。
地方の旅館で行われた女流本因坊戦最終局………ヒカルは、たったひとりで来ていたのだ。
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