2004年09月21日(火) |
『アナタが生まれた この夜に』(オガヒカ) |
車のエンジンを切り、外へ出る。 昼間の残暑が嘘のような心地よい風と、虫の声。 緒方は手元の時計を確かめた。
21:38
取材やら何やらで、かなり遅くなってしまった。
「ケーキで機嫌が直れば良いんだがな」
――果たして、そううまくいくかどうか。
中国の棋戦から帰ったばかりの彼は、自宅のマンションに戻らず、祖父の家に帰ってるから、と空港からメールをよこしてきた。 旅行好きな彼の祖父が家を空けると、彼はその間祖父の家に泊まりたがる。気が向けば、祖父がいる時でもその大きな家に滞在し、そこから仕事に出かける。緒方も、何度かそれに付き合った。 最初は恐縮ばかりしていた家の主も、最近ではすっかり馴れて、緒方が泊まると聞けばとっておきの大吟醸を片手に心待ちにするようになっていた。 彼はといえば、祖父に緒方を取られるかっこうになるので多少拗ねるのだが……。いかんせん、彼は酒に滅法弱い。対等に付き合おうとすればつぶれるし、そうでなければ、冷やした麦茶を舐めながら、酒の話で盛り上がる祖父と緒方をうらめしそうにじっと見ているしかない。 …それでも、文句を言いつつも、彼は緒方が祖父と飲むことを止めようとはしなかった。
緒方は知っている。 彼が、彼の祖父が楽しそうに酒を飲んで語る様子を、嬉しそうに…目を細めて、見ていることを。 わがままなようで、子供のようで……その実、深い深い、「慈しみ」のような優しさを持つ恋人。 その風のような軽やかさでもって、誰のもとにもとどまらず、寄りかからない。…しかしとんでもなく寂しがりの…仔猫のような。
そんな彼が、自分の腕になつき…安らぎ、甘えてわがままを言う……この優越感。 その身体を抱きながらも、こちらが包まれているような……この充足感。
すべて、彼を想うようになってから生まれたモノ。
そんな彼が生まれたこの夜は。
今夜のように、虫の音が優しく響く夜だったのだろうか。 今夜のように、涼しい風が頬を撫でる夜だったのだろうか。
ススキが揺れて。 ハギがしだれ下がり、フジバカマが微かに香る。 オミナエシがひっそりと咲き、コムラサキシキブがたわわに実る、秋の夜に。
門を開ければ、出迎えるのは秋の草花。 彼の祖母が好きだったというシュウメイギクやホトトギスの花が、今を盛りと咲いている。
渡された合い鍵で家の中に入ると、玄関には見慣れたオレンジと黄緑のスニーカー。 いつもの茶の間のちゃぶ台には、梅酒の瓶と氷の溶けたグラスが放っておかれてあった。その上にケーキの箱を置いて、首を巡らす。脱ぎ散らかされた靴下やベルトの後を追っていけば……求める存在はそこに居た。
ごろん……と、縁側に半分身を乗りだして、冷たい板の廊下の感触を楽しむように、すこし赤い頬をぺったりとつけている。 伸ばされた左手の先には、大事にしていた筈の鼓が転がったままだ。
緒方はくすり、と笑うと、彼を抱き上げた。
腕になじむ、重さとぬくもり。 腕の中の彼が、もそ…と動き、ほんの少し、緒方のスーツに鼻を押しつけた。
――その時の、彼の表情は。 そこに、暗闇に、ぽつりとちいさな灯りが灯ったような、そんな微笑み。 無意識にでも、その香りが分かったのだろうか。 彼を包む、その存在の……。
緒方は、たまらなくなって、恋人の頬に自分の頬をすりよせた。 こんな、想いは……こんな、心は……彼が生まれたからこそ、生まれたモノ。
「ヒカル………」
お前が生まれたから、自分はこんなにも……変わることができた。 お前が生まれたから、自分は愛することを…その幸せを、知った。
感謝を。 ありったけの感謝を。
お前が生まれさせた、両親、祖母、そしてはるかに続く人々に。 天文学的な確立で「お前」となった、その運命に。 「あの時」お前と出会えた、偶然に。 お前を愛することができる、奇跡に。
目に見えない、しかし確かに此処にあるものに捧げよう。
それらが全て集まって、腕の中で眠るヒカルに。
「感謝する……ヒカル。此処に、お前が生まれてきたことを」
――アナタが生まれた、この夜は。
お前を抱いたまま、眠りにつこう。
――アナタが生まれた、この夜は。
散らかした部屋の片づけは、明日でいいから。
――アナタが生まれた、この夜は。
使い慣れた、洋間のシングルベッドで。
――アナタが生まれた、この夜は。
遠く、近く響く、虫の音色をうとうとと聞きながら………。
――アナタガウマレタ、コノヨルニ。
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