2004年09月22日(水) |
『手に届く背中3』(女の子ヒカル) |
陽が沈み。 最後まで西の空を朱色に染めていた残光も、やがて、藍色の薄闇に溶かされてゆく。もともと高い処だっただけに、風は強かったが、今では身を震わせるほどの冷たさまでも加わっている。
――自分はともかく、まだか細い少女が長居して良いような場所じゃない。
ヒカルも泣き止んだようだし、そろそろ部屋に戻すか、と緒方が考えたところで、ある音が響いた。
何かを踏みつぶして転がしたような、そんな奇妙な音。
「おがたせんせ……」
ヒカルは緒方にしがみついたまま、細い声で訴えた。
「おなかすいたぁ………」
その声が。 あまりに正直な、その声が、どうにもこうにも可笑しくて、思わず、吹き出さずにはいられない。
「………くっくっくっくっ………」
その肩の震えは、ダイレクトにヒカルにまで伝わって、ヒカルはむう、とふくれてバシバシと緒方の背中を叩く。
「笑うことないだろー!対局ですっげ疲れたんだから!!」
「……いや……くくっ…、まぁ、そうだろうな……」
緒方は振り返ってヒカルの頭をぐしゃぐしゃと掻きまわす。 ふくれるその表情は、多少目元と鼻の頭が赤いものの、いつもの少女だ。 好奇心と、無邪気さと、貪欲さと。 それらをすべて持ち得る子供だ。 何故かそれにほっとする。
「何だよー!」
追いすがるヒカルをよそに、緒方は非常階段から出て、ホテルの廊下に入った。風がないだけでも、少しはあたたかい。ヒカルもそれに続く。
「何でもねぇよ。…とりあえず着替えてこい。何か手っ取り早く食えるモノでも差し入れてやるよ」 「えーオレ、ラーメン食べたい!」 「かまわんが……検討はいいのか?」 「へ?検討?」
思いきり「ナニソレ食えるの?」…と言わんばかりに首を傾げるヒカルの額に、緒方はその長い指でデコピンをくれてやった。
「…今、7時5分前だぞ」 「検討……あーーーっっ!!女流本因坊戦の検討!!」
慌ててヒカルは自分の部屋に向かって走り出す。 遠ざかる小さな背中に、緒方は面白がって声をかける。
「――進藤!」 「ナニっ!」
ヒカルは部屋に入るべく、カードキィを取り出していた。
「検討の後でなら、ラーメン食いに連れてってやるぞ。タイトル逃した残念祝いにな」
ヒカルはキィを通すと、思いきり顔をしかめる。
「いらないよそんなモン!!」
バタン!と扉は閉じられる。 予想通りのリアクション。 かまって飽きないとは、まさにこのことだ。
くつくつと笑いながら、緒方はエレベーターに向かう。 そんな彼の背後から、もう一度声がかかった。
「緒方先生!」
ぴた、と歩みを止めた。
「その……ラーメン、緒方さんがどうしても行きたいって言うんなら、つき合ってやってもイイから!」
そしてまたばたん、と扉が閉まる。
「あ〜〜〜、ホント、飽きねぇ奴………」
面白すぎて、ますます目が離せなくなるではないか。
――とりあえず、子供の機嫌を取るために、地下のベーカリーでベーグルかパニーニでも探してきてやろう。 子供を釣るなら、食べ物が手っ取り早い。
「……あれ?」
ヒカルは、スーツを脱ぎ捨てて、履き慣らしたジーンズを履きながら首をかしげた。
「そういや緒方先生、なんでいたんだろ?」
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