2004年09月25日(土) |
『雨やどり2』(久々の続き〜。マイフェア) |
――まさか、こんな所で自分の娘と出くわすとは思わなかった。
……というのが、正夫の正直な感想である。 呉服屋の女将は、彼がヒカルの父親だと知るや、そんな方をずぶ濡れなままにしておけない、さぁ風呂に入れ、と強引に風呂場に連れ込み、閉じ込めた。見ず知らずの他人の家の風呂に入るなど……と抵抗がない訳ではなかったが、ここまで来たら皿まで食らうしかないようだ。 風呂から上がると、自分が脱いだずぶ濡れの服はどこかに消えており、少し着慣らした感のある木綿の着物と帯が丁寧に畳まれて置いてあった。
「…ああ、上がられたんですか。失礼」
不意に脱衣所の簾戸がからりと開かれ、長身の男が姿を見せた。
「いや、こちらこそ……お世話になって」
腰にバスタオルを巻いただけの姿で挨拶するのは少々マヌケだが、風呂までしっかり入った上に着替えまで用意してくれたこの家の者に失礼はできない。 まだ若い男は気にした風もなく、ビニールの袋に入ったままのものを正夫に差し出した。 「此処は女ばかりの家なので……こういうものには気が回らなかったらしい」 多少苦笑いしながら渡されたその中身を見ると、買ったばかりと思われる下着類。…なるほど、そういえば用意されていたのは着物だけだったようだ。 「いや、これは…どうも」 正夫も苦笑しながら、ありがたく受け取る。正直助かった。…そして、下着を持ってきたのがあの女将でなくてよかった。
「着物が面倒だったら着付けさせてもらいますが…どうされますか」 まだ20代半ばくらいの彼は、その年に似合わず丁寧な口調だった。しかも使い慣れた様子で、ぎこちなさもない。 (ウチの新人とはえらい違いだな……) …そういえば、自分の娘も、敬語のけの字も使えているところを見た事がない。元気が一番、と、少々…いやかなり奔放に育ちすぎてしまったようだ。 「…進藤さん?」 「…あ。その…大丈夫です。家でたまに着ることもありますから」 正夫のその言葉に、彼は苦笑した。 「年下の者にそこまで丁寧にならなくても良いですよ。俺は此処の女将の甥です。どうせあの叔母のことだ、強引にお節介焼きまくってこうなったんでしょう」 彼の表情に、正夫の表情も少しやわらぐ。 「正直……驚きました」 正夫の答えに、彼は心底やれやれ…といった風情でため息をついた。 「…まぁ、本人に悪気はないので…勘弁してやってください。じゃ、着替えたら店の方にどうぞ。進…娘さんも待ってますから」 「ああ、ありがとう」
彼は、また簾戸をからりと閉じて去っていった。
長身で…どこかあの女将と血のつながりを感じさせる整った容姿のせいか怜悧な印象を受けたが、育ちの良さを感じさせる青年だ。しかも年齢を感じさせない不相応な落着きと世慣れた印象もある。営業という仕事柄、様々な人間を見ることが多いが、それでも、初めて見るようなタイプだ。
「学生……ではないな」
――あれは、自分の力で食っている人間だろう。
後で職業を聞いてみようかと思いつつ、正夫は用意された下着と着物を身に着け始めた。
――彼は、まだ知らない。 先程下着を持ってきた男が自分の娘と同じ職業で。 そしてさらに、その囲碁の世界でも数少ない頂点に立つ男だということを。
正夫にとって、彼は親切で気の付く、今時珍しい青年でしかなかったのだ。
|