2004年09月30日(木) |
『雨やどり3』(マイフェアシリーズ) |
久しぶりに身に付けた着物は、丁度良い具合に着古してあって、さらりと肌に心地よかった。柄もそんなに奇抜ではなく、縞の模様が落着いている。 どうやら誰かのお古らしい。 これなら、返す際も気軽にクリーニングに出して返せそうだ……などと、正夫はちょっと小市民的な思いを抱いていた。呉服店だけに、高級品などを着せられたら買い取りを迫られるのではないかと、冷や冷やしていたのも確かなのだ。
ともかく、あの女将にお礼を言わなければ…と、正夫は店先へと続く廊下を歩いていった。 「あら、もうお上がりですか」 するとその部屋からタイミング良くこの店の女主人が出てくる。 「あ、はい。どうも、風呂までいただいた上に着替えまで…ありがとうございました」 「いいんですよぉ。ウチの父の着古しで申し訳ないくらいです。今麦茶お持ちしますからね。中に入ってお待ちくださいな。ヒカルちゃんもそこで待ってますよ」 にっこり、と彼女は微笑むと、ぱたぱたと奥へ姿を消してしまった。客商売…というより、本当に人をもてなすことが好きなのだろう。丁寧なのだが、どこか下町の香りがする応対に、少しだけ親近感が湧く。
(…それにしても……ヒカル、どうしてこんな呉服屋の女将と知り合いなんだ?)
普段の吾が娘の格好や言動、どこをどうとっても「着物」などという日本文化とは結びつかない。活発で、明るくて、じっとしていない……彼が目にするのは、制服以外はジーンズ姿とか、ジャージとか、そんなものばかりだ。今は中学も卒業してしまい、そのまま囲碁の棋士になんぞなってしまったので、ある意味「女の子らしく見えた」制服姿も、見られなくなってしまった。 何とかどうにか娘らしくならないものかと、妻とため息をついたのは、かなり以前からなのだが、いまだにソレは、進藤夫妻の悩みのタネでもあった。 十七歳……年頃の娘を持つ親の悩みとしては、ちょっと世間ズレしているかもしれないが、親として正夫はそれなりに悩み、そしてこれまたお約束通りにその悩みの原因たる娘はそんなことなど全く理解していなかった。
「あー!!そっちに打つかぁ!」
部屋に入った途端に耳に入るのは、聞き慣れた……まるで男の子のような言葉で叫ぶ、娘の声。 しまった、とばかりに頭に手をやるヒカルは、そのまま無造作にがしがし、と髪をかきまわす。着物を着てはいても、その所作はまったく少年のものと変り無い。 「…騒いでいる暇があったら早く打て。十秒碁の意味がないだろうが」 「わかってるよっ!」 …そしてヒカルと碁盤をはさんで向かい側に座っているのは、先程下着を持ってきてくれた…あの青年だった。 ヒカル相手ということで、先程の自分に対してよりも、若干年相応……というかぞんざいな言葉づかいになっていた。ぱち、と微かな音を立ててヒカルが黒石を置くのを無言で見つめると、すかさず碁笥から白石を人差し指と中指で器用にはさんで、ぴしり、と打つ。まさしく、「打つ」とか、「指す」という言葉がぴったりの所作だった。胡座を掻いて座っているのに、崩れたような感がない。 そんな雰囲気を感じていないのか、慣れているのか、ヒカルは飄々として次の手を打つ。
「そういや、珍しいよねぇ」
ぱちり
「何が」
ぱちり
「緒方さんのジーンズ姿なんて、オレはじめて見たよ」
ぱち
「こんな大雨の日に呼び出されて、スーツで来る訳ないだろ」
じゃら……ぱちり
「いや、緒方さんもジーンズ持ってたんだなー…って」
ぱち
「水槽の掃除をするつもりだったからな…作業着だ」
ぱちり
正夫には、囲碁に関してはまったく分からない。 しかし、娘はれっきとしたプロになり、良い成績をおさめているという。 家にいる「娘」からは、まったく想像もつかない姿だ。 しかし。
こうして、「大人」である青年と向かい合い、臆することもなく、自然に碁盤に向かい、碁を打っている―――。
緒方もヒカルも、本気で打っている訳ではない。手遊びとも言える、気軽な早碁だ。
――しかし、正夫はヒカルの姿を見て、普段とは違う、「棋士」としての娘の姿を見たような気がした。
「……あら?まだ中にお入りになってないんですか」 正夫がふたりの姿を見つめている間に、美登里が、麦茶のグラスとポットを持って台所から帰ってきた。 「あ、その……」 正夫の様子に、ちらり、と美登里が中の様子を伺う。 「やれやれ…またかい?」 彼女は、正夫に向かって苦笑いを浮かべた。 「ヒカルちゃんも囲碁は大好きなんですけどねぇ…。ウチの甥っ子も、輪をかけて囲碁バカなんですよ。打ち始めたら、近くに誰が来ようと気がつきゃしないんですから。気にせずにお入りくださいな。お風呂上がりの麦茶、召し上がれ」 言うだけ言ってさっさと正夫を連れて部屋に入ると、流石に二人も気がついた。
「…あ、父さん、お風呂あがったんだvv」 ヒカルが無邪気に碁盤から気をそらしたのを合図に、その対局は打ち掛けとなったようだ。 ヒカルは無邪気に父の隣にぺたん、と座るとね美登里が渡してくれる麦茶のグラスを受け取った。ヒカルは美味しそうに一気に飲み干す。 「おいし〜〜〜〜♪ね、美登里さん、も一杯もらっていい?」 「あいよ、いくらでも」 「…おいおい、ヒカル……」 「飲んでみてよ父さん!美登里さんの煎れてくれる麦茶って、ホントにオイシイんだ!」 ヒカルに薦められて、正夫はグラスの麦茶を一口飲んだ。…確かに美味い。ほどよく冷やされたそれが、風呂上がりで乾いたのどに染みわたるようだ。そして、口の中にふわりとのこる、香ばしい香り。 「本当だ……美味い」 気がつけば娘同様に飲み干していた。 「まぁ、薦め甲斐があること」 ころころと微笑みながら、美登里は空いたグラスに麦茶を注いだ。
「精ちゃん、あんたもどうだい?」 女将のその呼び方に、彼は少し眉をひそめた。…確かに、こんな立派な大人になっておいて、この呼ばれ方は気恥ずかしいのだろう。 「…いや、後にしますよ。ところで、――進藤さん」 彼は、正夫の鞄を目の前に持ってきた。 「鞄の外の水気は殆ど取れたので、中身を開けても大丈夫だとは思うのですが……一応、確認した方が良いかもしれませんよ」 「ああ…そうだね。ノートパソコンも中に入ってるし」
パソコン、と聞いて、ヒカルが目を輝かせた。 「パソコン!父さん、パソコン持ってたんだ!」 ヒカルは何の気なしに父の鞄に手を伸ばす。
「――待て!進藤」
びくり、と、伸ばしかけた手が止まる。 大きくはないが厳しい声の方に目をやると、緒方が、声と同じように厳しい表情でヒカルを見ていた。
「精ちゃん、何を……」
「これは進藤さんの大事な仕事用の鞄だ。会社の重要な書類やデータが入っていてもおかしくない。そういうものに、たとえ父親のものとはいえ、本人の了解もなしに先に開けようなんて事はするものじゃない」 「…う……うん………」 「お前だって、大事な棋譜を打っている最中の碁盤を、人に荒されたくないだろうが。それと同じだ。…分かるな」 「うん………」 ヒカルはうつむいた。しかし緒方は容赦ない。 「お父さんに、何か言うことがあるんじゃないのか」 「…うん。…父さん、ゴメン。勝手に鞄、開けようとして」
正夫はそれこそ驚いていた。 確かに、仕事用の鞄だし、仕事に必要な書類が入っているのも確かだ。 しかし、どうせ娘が見たって分かるまい……。そんな気持ちでいたのだ。ヒカルはきっとパソコンが見たかっただけなのだから。乱暴に扱われるのは困る……と、思いはしたけれども。 しかし、目の前の青年は、ヒカルにそんな「甘え」を許さなかった。 「子供」ではなく、ヒカルを一人前の人間として見ているからこそ発した言葉だろう。 そして、ヒカルはそれを認め、素直に持ち主の自分に謝っている。 …その、何もかもが、正夫を驚かせていた。
「……余計な事を言って、すいません」 緒方は正夫に頭を下げた。
「美登里伯母様、店の車は裏手でしたね」 「……あ、ああ……そうだよ」 「店の前まで廻してきます」
緒方は、そう言ってその場を後にした。
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