petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2004年10月27日(水) 『ファーレンハイト−氷点と沸点−5』(精良さんとヒカルと…おや?)

郊外に入ると渋滞はなくなり、車はスムーズに走った。
ヒカルは本因坊秀策のライバルだったという江戸時代の名棋士、岸本左一郎に興味を持ち、精良に話をせがんだ。
話をしているうちに、ヒカルが秀策は知っていても名前だけ、その上道策の存在すらも知らないという事が判明し、精良は苦笑しながら、
「…まぁ、歴史を知っているからといって、強くなる訳ではないけどな」
と前置きしながらも、歴代本因坊の中でも後世から「実力13段」と言われた怪物、第四世本因坊道策の話からはじまり、歴代の本因坊や、秀策、そしてライバルであった岸本左一郎の話などを、ヒカルにも分かる言葉で話してくれた。

「…お前、昔の名人たちの棋譜を並べてみることはないのか?古い対局とはいえ、勉強になることはたくさんあるぞ」
「あ…はははは……」

ヒカルは乾いた笑いでごまかしながら、ちらり、と背後を見上げた。
そこには、自分にしか見えない、1000年以上のキャリアを持つ囲碁の幽霊がふわふわと浮かんでいる。
棋譜を並べるも何も、自分はこの囲碁の歴史そのものみたいなモノと毎晩打っているのだ。そんな時間はまずない。…棋譜や本なら、自分が疲れた時に本を閉じればそれでおしまいだけれど、この生きた棋譜は……そりゃあもう、しつこかった。


「……進藤?次の角はどっちだ?」
「…え、あ、左に曲がって!そしたら左側の向こうから二番目がオレん家」
「分かった」

精良は左にウインカーを出し、ステアリングを切った。
住宅街なのでゆっくりと走る赤い車は、ヒカルの家の前で静かに止まる。

「ありがとーございました!家まで送ってもらって、助かったよ」
「まぁ、ついでだったからな。――それから、あの近くの碁会所に、行くなとは言わないが、今日みたいに遅くならないようにしなさい」
精良の言葉に、ヒカルは素直に頷いた。
「は〜い。あ!まだお礼言ってなかったよね、ヘンなおっさんから、助けてくれてありがとうございました、緒方先生」
「どういたしまして」
素直な子供の言葉に、つられて精良も微笑む。

ヒカルがシートベルトを外してドアを開けた時、不意に彼は振り向いた。
「――あ、そうだ」
「?」
「丁度いいから本人に聞いちゃうけどさ、緒方さんの下の名前……あれ、なんて読むの?」

「は?」

「精神の「精」に「良い」の「良」だろ。漢字はわかるんだけど、どう読むか分っかんなくて……まさか、女なのに「せいりょう」とか「やすよし」なんて読むわけないし」

大まじめで尋ねてくるヒカルに、精良はとうとう吹き出した。
面白い、面白すぎる。
八大タイトルの種類も分からず、当然そのタイトルホルダーの名前も言えない。それなのに、塔矢アキラのライバルを名乗り、今年プロ試験を合格してのけた、怖いもの知らずの新しい波、進藤ヒカル。
停滞しがちな囲碁会に、津波級の衝撃をもたらしそうな、そんな少年。
――そんな彼に、改めて名乗りをあげてやるのも、面白いかもしれない。

精良はシートベルトを外した。
ヒカルの顔に手を添え、もう一方の手で彼の黄金の前髪をかきあげてやる。


かすかに。

一瞬だけ。

ヒカルは自分の額にひやりとした感触を感じた。
…そして感じる、微かな煙草と交じり合った、不思議な香り。


「??★!!○●?↑↓///!!」

「……セイラ」

「?」

精良はゆったりと微笑んだ。

「セイラ、と読むんだよ。覚えておきなさい、ボーヤ」

そう告げて、逃げ腰になりかかったヒカルを半分開いたドアにとん、と押してやる。

「うわぎゃっっ?!」

ヒカルは、自分の家の前に転がり落ちた。


そんなヒカルの様子を微笑みながら満足気に眺めた精良は、助手席のドアを閉め、自分のシートベルトを締め直した。
ステアリングを握り、発進しようとして……ようやく立ち上がったヒカルに、何かを告げた。
ドアを閉め、窓を閉じたままで告げられたそれは、ヒカルには聞えない。

「?…ま、いーや。ありがと、またねー」
ばいばい、と手を振るヒカルに軽く頷いて、精良は愛車を走らせる。
真紅の車のテールランプが角を曲がるまで、ヒカルはその車をぼうっと見送った。





『なかなか……強くて、かわいらしい女人ですね』
ヒカルの隣でふわりと狩衣を揺らしながら、佐為が微笑んだ。
「強いのはそうだけど……かわいらしい?!靴履いたら180センチ越えるんだぜあの人!佐為、おまえどっか目、おかしいんじゃないの?!」
『そうでしょうか』
佐為は扇で口元をそっと隠す。
…ヒカルには、分からなかったかもしれない。
…けれど、彼女は間違いなく、最後にヒカルに向かってこう言ったのだ。

「ありがとう」――と。


口に出さずとも、分かり切っている感情。
しかし割り切れない想い。
――ヒカルはあの時、それを真正面から彼女に問いかけたのだ。

それは、小さなきっかけ。
しかし、大きな波紋をもたらす。

彼女は自らの弱さを認め、さらなる強さを望んだ。
タイトルにも満足しない、その貪欲さ。上へ上がることを怖じない、心の強さ。

佐為には分かる。
おそらく、彼女はもっともっと、強くなるだろう……と。
氷のような冷静さと、炎のような激しさを合わせ持つ、不思議な瞳をしていた。


……どこか、懐かしい………


『そういえば、岸本左一郎とは…なつかしい名前を聞いたものです』
「え、佐為、その人知ってるの!」
『ええ。私と虎次郎の……それはよい好敵手でしたから』
「こうてき……なにそれ?」
『今風にいえば、「らいばる」ですね』
「…強かった?」
『それはもう』
「へえ〜、その話、もっと聞きたい!」
『良いですよ。あの頃の一局を並べながら、お話しましょう♪』
「やったぁ♪」

ヒカルは元気良く、玄関に向かってぴょん、と飛んだ。

『…あ、ヒカル!』
「なんだよ!」
『額に、紅がついたままですよ』
「!!!!///////!!!!」




ヒカルが真っ赤になって固まったのは、言うまでもない。





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