2004年10月26日(火) |
『ファーレンハイト−氷点と沸点−』4(精良さんとヒカル) |
かぼそく揺れていた白い煙が、不意にかき乱された。 精良が、手にした華奢な煙草を灰皿にねじ込んだせいだ。 先程まで、どこかつき放すように前を向いていた彼女は、対局の場さながらの鋭い目つきで隣りに座るヒカルを睨み付けた。 その視線は凍り付かんばかりに怜悧なのに。 向けられた先を灼きつくしてしまわんばかりに、熱い―――。
そんな精良の視線を受けても、ヒカルの灰翠色の瞳はそらされることがなかった。 じっと、精良を見つめている。 そして繰り返した。
「緒方先生は、悔しく、ないの?」
その答は、微笑みによってもたらされる。 ――凄絶なる、しかし艶やかな、「怒り」という名の微笑みによって。
「悔しくないと…思うか」
……侮辱としか言いようがない言葉を吐かれて。
「悔しくないなんて……思うか?」
……いいや、違う。そんな些事なぞ、高みから哀れんで見下ろすことができる。 実の親が呆れ…師匠が愛でた、その矜持。 ……そんな事ではなくて………。
ナニガ?
ドウシテ?
ヒカルはふ、と左後ろを見上げて、それから精良に向き直る。
「――悔しい?」
「――ああ、悔しいとも」
苦々しく、吐き捨てるように精良は言った。
プァン!と、背後からクラクションが響く。 気が付けば、前方の車とはだいぶ距離が開いていた。 ち、と精良は舌打ちし、今までよりもいささか乱暴に車を発車させて、前の車のギリギリまで近寄ったところで急に車を止めた。その反動で、シートベルトに止められたヒカルの身体ががくん、と揺れる。
「……悔しいよ……。師匠との十段戦五番勝負」
精良は前を向いたまま、目を細めた。
――対向車のライトも、ないのに。目の前に見えるテールランプは、ぼんやりと赤く光るだけ。
「…私が、もっと強ければ。……誰もが名局と言わしめる戦いができていたら―――!」
――あんな中傷なぞ、言わせないのに。
――自分はともかく、師匠まで侮辱するようなあんな暴言、許しはしないのに―――!
先に見える信号は青いのに。 車はまだ、動かない。
だん!と精良はステアリングの中を叩いた。 夜の町にけたたましく響くクラクションの音。
響いて……こだまして……消えてゆく。
ようやく交差点に出たところで、また赤信号になった。 今度は静かに車が止まる。
「進藤」 ぼそり、と呟くような小さな声。 「なに?」 しかしヒカルは聞き逃さなかった。
「お前の言う通りだ。どんなに言いつくろおうとも、私は、悔しい」 「うん」 白い手がなめらかに動いて、また細い煙草を取り出し、火が点けられる。 「…自分に実力がないことが……とてつもなく悔しい」 囲碁界の頂点のひとつに既に立っている彼女が求めるのは、さらなる強さ。 タイトルを所持しながら、飢えている。 ヒカルよりもおよそ高い所にいる彼女は、そこから見える光景に、全然満足していなかった。 今のヒカルには、彼女の見えている光景ですら、まだ見えないでいたのだけれど。
ふう、と吐き出される煙が踊り、窓の外に消えてゆく。 とんとん…と、彼女はシガーボックスに軽く灰を落とした。
「だから…な、進藤」 「?」 「院生だったか?その彼女に言っておけ。私みたいな弱い棋士ではなくて、どうせ目指すなら、本因坊道策や秀策、そうでなければ秀策のライバルだった岸本左一郎クラスの棋士にしろ、とな」
精良は煙草を銜えると、スムーズにクラッチをつなぎ、軽くシフトバーを操作して前進した。気が付けば、信号は青になっている。
「げ〜っ、緒方先生が弱いなんて言ったら、俺たちなんか何なんだよ〜」 少年の無邪気なぼやきに、精良はくつくつと笑う。 「さてな……とりあえず、プロにはなったようだし、芽は出たんじゃないか?」 「へへへっ///そぅ?」 「簡単に踏みつぶせるけど」 左手で煙草を取り、ニヤリと笑う。
「ひどっ!」 「踏まれて踏まれて、大きくなりな、ボーヤ」 「俺は雑草じゃねぇよっ!」 ぎゃんぎゃんと噛みついてくる子犬を相手にしているようで、そんな無邪気さが精良には面白かった。 煙草をもみ消してからぐしゃぐしゃとかき回したヒカルの黄金の髪は、意外に固い感触がした。
「…それで?お前の家はどの辺りだ?」 「…へ?あ、うわわっ、そこで右曲がって、それから青梅街道入って!」 「右折させるなら、もう少し早く言え!――ったく」
深紅のフェアレディZは、少々強引に交差点を右折した。
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