2004年10月25日(月) |
『ファーレンハイト−氷点と沸点−』3(精良さんとヒカル) |
「――誰だよ……」
「……………………」
「誰がそんな事言ったんだよ!!」
「ウルサイ。…怒鳴らなくても聞こえるよ」
つい激高して噛みつくような勢いのヒカルを、精良はじろり、と冷ややかな視線と刺すような言葉で制した。 やがて見えてきた赤信号に、精良は車を止める。
「煙草、いい?」 「…え?」 「煙草、吸っていいか?」 「あ…う、うん。ドウゾ……」 思ってもいない言葉を投げられて慌てるヒカルをよそに、精良はシフトレバーの後ろにあるポケットから煙草とライターを取り出し、火を点けるとウィンドウを少しだけ開けて、ふ、と煙を吐いた。 細身のそれは、彼女のしなやかな指にしっくりとおさまり、先端から、細くて微かな紫煙がゆらゆらと立ち上った。 (そんなに煙草臭くないや…。じいちゃんの煙草とは、全然違うんだ)
精良はもう一度煙草を吸うと、まだ長いそれをシガーボックスに押しつけ、車を発進させる。――信号は青だった。
「さっきの話だけど」 ぴくり、とヒカルは顔を上げた。彼が見る彼女の表情は、相変わらず静かなままだ。 「…別に、ああいう話は今に始まったことじゃない。プロ試験に合格してから、低段からさらに上へ勝ち上がっていった頃からも、形は違えど言われてきた事だから」 「…そんな……」 「珍しかったんだよ」 「何が」 「女流枠でなく、プロ試験をまともに合格してきた女流棋士がな。…そして、そんな女流棋士がタイトル戦のリーグ入りまで狙える位置に登ってきた」 前の車のテールランプがさらに赤く光る。渋滞気味のようだ。 「だって、それは緒方先生の実力だろう?」 「そう言える男の方が、少なかったんだ。…おまけに、私がこんな姿(ナリ)だから、余計にな」 「……?」 首を傾げるヒカルに、精良は前を向いたまま、嘲るように微笑った。 ――何に対してか、までは、分からなかったけれど。 「対戦相手と寝て……それで、勝ちを譲ってもらったんだと。…そうでなければ、女がタイトル戦の第三次予選まで勝ち上がるのはありえないそうだ」
とんとん、と、精良の指がステアリングを軽く叩く。 彼女の表情は読めない。 対向車のヘッドライトに時折照らされるだけで、凍りついたように。
「そんな……ひどいよ」 「?」 「緒方さ…緒方先生が、そんな事する訳ないよ!相手が誰だろうが叩っ切って自分を押し通して、女王サマ状態で碁盤の上を支配するのが緒方さんの碁じゃん!そんな自分の実力に自信も誇りも有りまくりな緒方さんが、なんでそんな真似するなんて思えるのさ!!」 「……オマエが私の碁をどう見てるかすごくよく分かったよ」 ふふ、と精良は少年を横目で見た。 「――っ///、じゃなくて!!」
「大丈夫だ、その時には師匠がキレた」
「………………え?」
(師匠って……緒方先生の師匠って……緒方先生は塔矢と同じで塔矢門下だから……塔矢名人?!え、ちょっと待って、キレた??!) 灰色の大きな目をまん丸にして驚く少年に、精良は楽しそうに笑った。 「ああ、キレたとも。「私の弟子を不当に愚弄するか!」…とな。そんな棋士がいる囲碁界で対局するなど、虫酸が走る、とかなんとか、大事なイベントはキャンセルするは、タイトル戦はボイコットしかけるは、一時は引退話まで持ち出して、日本棋院はおろか、スポンサーの新聞社まで巻き込んでの大騒ぎになった」 「……すげ………(やっぱ塔矢の親父だ……)」 「おかげで、何故か私までが師匠をなだめなくてはならなくなってな。自分の噂話なのに、私が怒る暇などなかったぞ」
あのように激昂する師匠の姿なんて、あれ一度きりだ。 ……自分のせいで、迷惑をかけた。 …なのに、すごく嬉しい思い出でも、ある。
ゆっくりと、車が動いては、止まる。 その度に、精良の左手がシフトレバーをなめらかに操っていた。
「…まぁ、そのおかげで表立っての攻撃はなくなったがな。それでも聞こえてくるものさ。――自分の負けを認める度量もないクセに」
精良はシガーボックスに置いた煙草を銜えて、再び火をつけた。カチン…と音を立てて閉まる、少し小ぶりののジッポー。
「……今回のもそのひとつだ。今まで男しか手にしたことがないタイトル……。その頂点に、女の私が立ったのだからな。はっきりとした形で、あいつらは私よりも「下」だ、と位置づけられてしまう」 とん、と、灰をボックスに落とした。 「それが耐えられずに……しかし上に這い上がってやろうという気概もない、くだらない嫉妬が言わせているのさ。私が手にしたタイトルは、「女流棋士である私の実力で獲ったものではない」そう思いこみたくてな」
細い煙が、揺れる。 ゆらりと流れて、窓の隙間から外へ流れていく。
「………でもさ」
「?」
ヒカルは、前を見つめたままの精良をじっと見ていた。 どこまでも、まっすぐに。
「―――緒方先生は……悔しく、ないの?」
前を向いたままの彼女の表情が、僅かに動いた。
車は動かない。渋滞はまだ続いていた。 精良が手にした煙草の煙だけが、ゆらゆらと、白く揺れては、消えた。
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