2004年10月24日(日) |
『ファーレンハイト−氷点と沸点−』2(緒方さんです。…女性ですが) |
まるでネコの子よろしく襟首を掴まれ、ひきずられそうになるのをヒカルは小走りになりながらついて行った。 「あ、あのさ…」 「ん?何だ」 彼女はヒカルの声にぴた、と足を止めて、振り返る。 ヒカルは、そんな彼女をじっと見上げる。
「あの……緒方センセイ……だよね?」 「ほう」
彼女は面白そうににこりと笑った。 何か企んでいそうな…キレイなんだけど、怖い微笑み。やっぱりこれは緒方さんだ、とヒカルは確信した。 「私と間違えるような女と面識があるのか?進藤新初段」 ふ、とヒカルの襟首を圧迫していたものが、軽くなる。 彼女が手を離したのだ。
「…や、だってさっき、すっげー言葉使ってたから……」 いつもは、女性にしてはやや固いものの、あんなにガラが悪くない筈なのだ。棋院の職員や上段者にたいしては、丁寧な言葉遣いしかしないのを、彼は見たことがある。 けげんな顔で見上げてくる少年に、彼女はくつり、と笑った。 「あれは喧嘩用だ。普段は使ったりしない…安心したか?」 眼鏡の奥の目が、ふわりと優しくなる。ヒカルはそれを見てにっこりと頷いた。
「うん。…でもすっげ似合ってた…………違和感なかったんだけど、緒方センセイって元ヤン?」 ぱかん!とヒカルの頭がはたかれる。 「…誰のおかげで院生になれたと思ってるのかな?ボーヤ」 「あたた……緒方先生…のおかげです」 「ならばその恩人に対しての口利きに気をつけることだな。……送っていくから、乗りなさい」 「…え、いいの?じゃない、いいんですか?」 「お前みたいな容姿の子が歩くには、この辺りは物騒すぎる」 「オレ、一応男なんだけど……」 「その「カワイイ少年」が大好きな輩もいるのは、さっき体験済みだろう?もしお前がそういう嗜好の持ち主だったら、止めはしないが…ふむ。という事は邪魔をした事になるのか?だったらお詫びにさっきの奴の所まで連れ戻して……」 「スイマセンオレが悪かったですお手数かけますが送っていってください!」 真剣に連れ戻そうとされかけて、ヒカルは必死に緒方を押しとどめた。その様子がおかしくて、彼女は車にもたれて声を殺して爆笑する。 「ひっでー!緒方先生、オレ、マジで連れ戻されるかと思ったのにー!」 先程までのやりとりが、単なる緒方の冗談だと知って、ヒカルはむぅ、と膨れながら彼女に抗議した。 彼女はなんとか笑いを納め、ぽんぽん、と少年の頭をかるく叩いてやる。…やっぱり、この少年は面白すぎる。 「まぁ、そうむくれるな。送っていくから、乗りなさい」 トン、と音がして、車のロックが解除される。 2人の目の前にあるのは、夜の街灯のほのかな灯りに鮮やかに照らし出される、バーニングレッドのスポーツカー。
「うわ、「十段Z」だ!」 「…なんだそれは」
怪訝な顔をしながら、緒方はシートに乗り込んだ。慌ててヒカルも助手席に乗り込む。 「…それで、何のこと?「ジュウダンZ」って」 「このクルマ、「フェアレディZ」だよね」 「ああ」 「緒方先生が十段のタイトル取ったくらいから、乗ってるよね?」 「ああ…確かあの頃の納車だったから」 「だから、きっとタイトル取ったお祝いなのかなって、みんな、緒方さんのこのクルマのことを、「十段Z」って呼んでるんだ!」
――ごち。 ヒカルの台詞に、緒方はステアリングに頭をぶつけた。…まさか、自分のあずかり知らぬところで、そのような名前でこの愛車が呼ばれていようとは。もう少しまともなネーミングはなかったのだろうか。 しかしタイトルを取ったからこうなった訳で。もし取れていなかったら、タイトルを取れなかった腹いせにヤケっぱちで買った車、と思われかねない。自力で買った初めての車に、そんな逸話をつけられてはたまらない。ショーウィンドゥで目にして以来、一目で気に入った車だったのだから。 (…つくづく、タイトルを取れてよかった……) 改めて、そう思った緒方新十段であった。
「…うん、だからオレたち新初段も、院生も、すげーよなって、話してるんだ♪特に女子なんてはりきっちゃってさぁ…。奈瀬って、院生で一緒だった奴なんだけど、「緒方十段みいな棋士になるんだ」って、すっげ燃えてる」 無邪気に語るヒカルに、緒方はふ、と顔を上げた。
「…私みたいな棋士に?」 「―うん!」
緒方 精良 新十段。 女流棋士でありながら、初の8大タイトルのうちのひとつ、十段を手にした女傑。 あの塔矢行洋名人の唯一の女弟子にして一番弟子。彼女は、その師匠を倒して、タイトルを獲った。
……くつり、と緒方は下を向いたまま自嘲的な笑みをこぼした。履いていたピンヒールを脱ぎ捨てて後ろに放り投げると、運転用のシューズに履き替える。
「…やめた方がいい」
そう呟いて、彼女はエンジンを始動させた。 真新しい、しかし馴染みつつある音と振動が2人を包む。
「緒方センセイ?」
彼女の様子が変わったのに、ヒカルはけげんそうな顔をして、緒方の横顔を見つめた。
「「師匠のお情けで、タイトルを譲って貰った」…そんな噂をされるような棋士にはな」 「――――!」
視線の険しさとは正反対に、緒方のフェアレディZは滑り出すように動き始めた。
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