2004年10月23日(土) |
『ファーレンハイト−氷点と沸点−』(ついにやりました…ええ、あのヒトです) |
道玄坂の碁会所で、つい夢中になって打っていたら、気がつけば辺りは暗くなっていた。 仕事帰りに立ち寄る客で、碁会所はこれからも賑わいそうだが、いかんせん、ヒカルはまだ中学も卒業していない未成年。 「ほら、とっとと帰りな!暗くなると、ここの辺も危ないからね!」 引き止めようとする常連さんたちを蹴散らし、おかみさんが追い立てるようにヒカルを碁会所から追い出した。 もちろん、それが、ヒカルの身を案じての言い回しだと分かっているから、ヒカルはありがたくおかみさんの言葉にしたがう。 「ありがと!おかみさん♪またねー♪」 「ああ、またおいで」 そっけないけれどちゃんと返事が返ってきたのが嬉しくて、ヒカルはひとり、笑みを含ませながら帰途についた。
………筈だったのだが。
「キミ、いくつ?この時間に此処にいるってことは、結構遊んだりしてるのかな?」 …なんて、サラリーマン風の気弱だけどちょっとイッちゃってるっぽい男につかまってしまった。 何がイッちゃってるって、ヒカルがはいている膝丈の短パンから伸びた、すらりとした脚を見る、その目つきである。…いわゆる、「そういうシュミ」の男らしかった。 「俺、急いでるから!」 「ま、待ちなよぅ。タクシー代くらい、出してあげるからさ。いいや、特別におこづかいもあげるよ?だから……ね?」
何が「だから」なんだか。 早く逃げたいのは山々なのだが、ヒカルの右手を掴んだ男の手は、案外、力が強かった。 (どうするかなぁ……とりあえずオッケーして、油断させといてダッシュで逃げるか……) 最寄りの地下鉄まで、ちょっと距離はあるが、走れない距離じゃない。 そんなこんなを考えていた時、カツ!と甲高いヒールの音が彼らの耳に響いた。
「……ウチの弟に手ェ出そうなんて、イイ度胸してるじゃねーか…」
やわらかなメゾソプラノの声が、こんなぞんざいな言葉を吐くとこうも迫力あるものになるんだ……と、ヒカルは妙なところで感心していた。 くい、と見上げてみれば、そこには、ヒカルの腕を掴む男よりも遥かに長身の女性が、迫力満点の目つきで彼らを見下ろしていた。 あつらえて作られたような白いスーツは出るところは出て、くびれるところはしっかりとくびれたナイスバディをしなやかにくるみこむ。膝上のやはり白いタイトスカートから伸びた脚はすらりと伸び、まるで人を踏むための狂気のようなピンヒールが恐ろしいほど似合っていた。 色素の薄い髪、理知的な瞳。フレームレスの眼鏡すらもが彼女の氷のような雰囲気をひきたてている。 そして彼女は、灼熱の溶岩もかくやとばかりに、その怒りをあらわにして男をにらみつけていた。
「その手を放せ、オヤジ」
カツ、と、ピンヒールの音がひびく。 ヒールの高さもあいまって、180センチは超えようかという長身に、男は最初から位負けしていた。 男の手が緩んだ瞬間、ヒカルは彼女の元に駆け寄る。 彼女はがし、とヒカルの首根っこを捕まえた。
「……ったく!こんな時間までんなトコウロウロしやがって!とっとと帰るぞ、オラ」 言うが早いか、そのまんま、カツカツとヒールを響かせながら、彼女は少年を引きずり、その場を後にした。
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